受付のカードリーダーに、会員証を通す。人の気配がして顔を上げると、スポーツバッグを肩にかけた若い男が、更衣室のある地下から階段を上がってくるところだった。
「あっ」と、互いの声が被る。相手は求である。
「帰ってきてたんだ。風呂?」
「そう。朝入りそびれたから」
このフィットネスジムに六十分コースがあることは、求から教わった。なんでも彼の、元職場らしい。トレーナーとして勤務していたのを辞めて、「まねき猫」の従業員になったのだ。
急ではあったが代わりのスタッフを見つけて引き継ぎをし、円満に退職したようだ。今でも時間さえあればこの古巣で、トレーニングに勤(いそ)しんでいる。週六で働いているくせに、よくそんな体力があるものだと感心する。
「たまには筋トレでもすれば?」
にやにやと笑いながら、求もカードリーダーに会員証を通す。Tシャツに、短パン姿。いつもより二の腕やふくらはぎが、充実しているようである。
「六十分だと、そんな時間ないでしょう」
「言い訳だな。トレ三十分、風呂三十分やってみなって」
「嫌よ。ただでさえ疲れてるのに」
週六で働いているのは、明日美も同じ。そのうち四日はデスクワークだけど、疲れるものは疲れる。休みの日にもこうやって、時次郎関係の用事に振り回されている。
「お疲れ様です」と笑顔で挨拶してくるスタッフに会釈を返し、明日美はジムを後にする。求は駅の反対側に住んでいるそうだが、あたりまえのようについてきた。
「時さん、どうだった?」
「無事に転院できたよ」
「退院は、いつになりそう?」
「そんなのまだ分からないよ」
質問が、鬱陶しい。せっかくひとっ風呂浴びてさっぱりしたのに、苛立ちが胸の底に、澱のように溜まってゆく。
「でも、準備は必要だろ」
「なによ、準備って」
「ほら、介護ベッドとか」
こめかみがカッと熱くなる。
求は前にも、明日美が時次郎の介護をするものと決めつける発言をした。あまりにも、時次郎の病状を甘く見ている。半身不随な上に、まともなコミュニケーションが取れないというのに。あの人が家にいて、四六時中喚き散らされたら、明日美にはもう逃げ場がない。
想像しただけで壁際に追い詰められたような気持ちになって、明日美はぴたりと歩みを止めた。
求が「どうした?」と振り返る。その顔をまっすぐ見上げ、はっきりと言いきった。
「さっき、転院先のスタッフさんにも言った。在宅介護は、無理だから」
自転車のおばさんがチリンチリンとベルを鳴らしながら、すぐ脇を通り過ぎてゆく。駅前広場では政治団体かなにかがスピーチを行っているらしく、マイク越しの音声が風にのって流れてきた。
「皆さん、許せますか。こんなことが許されていいと思いますか!」
その声に呼応するように、求が「はぁ?」と顔をしかめた。
「信じられねぇ。じゃあなにか、時さんはもう一生、家に帰れないのかよ」
「しょうがないでしょ。素人には介護は荷が重いよ」
「そんなの、少しずつ勉強して慣れてきゃいいだろ」
「誰がやるの、私が? 冗談じゃないわよ」
求と言い合いをしながら、繁華街の通りを抜けてゆく。左右に並ぶ居酒屋は、今日も昼間から賑わっている。下手をすれば親子にも見える二人の喧嘩になど、誰も関心を示さない。それをいいことに、ヒートアップしてゆく。
「なんでそんな冷たいことが言えるんだ。本当に時さんの娘かよ」
「知ったこっちゃないよ。アンタこそ自分の親の番がきたら、それはもう手厚く介護してあげるんでしょうね!」
感情に任せて言い返し、足早に歩いてゆく。売り言葉に買い言葉で、求からの応酬が当然あるものと身構える。
でもなにか、手応えがおかしかった。相手に当てるつもりで繰り出したパンチが、空を切ったような感覚だ。振り返ってみると、求が呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで顔を真っ赤にして怒っていたのに、一転して蒼白になっている。この僅かな間に、いったいなにがあったのか。空を切ったかに思えた明日美のパンチが、案外急所を突いたのかもしれなかった。
「ちょっとなに、どうしたのよ」
沸騰寸前だった明日美の頭も、冷めてゆく。
求は筋肉質な大人の男だ。それなのに、行く先を見失った迷子のように見えてくる。
「なんでもない」
「そんなわけないでしょう」
散々人の家庭のことに、口出しをしておいて。自分の親の話は、地雷なのか。
「帰る」
短く告げて、求がくるりと踵(きびす)を返す。広くてたくましいはずの背中が、なんとも頼りない。
呼び止めることは、しなかった。遠ざかってゆくその後ろ姿を、明日美はぼんやりと見送った。
『何年、生きても』好評発売中!
ベストセラー『妻の終活』の著者が贈る、永遠の「愛」の物語。
優柔不断な夫に見切りを付け、家を出て着物のネットショップを営む美佐。実家の蔵で、箪笥に隠された美少女の写る古写真を見つけ……。