安和の変

しかし摂関家にとって、高明が為平の義父になったのは想定外だったと思われる。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

高明はこの時代に発達した儀式作法、のちに有職故実(ゆうそくこじつ)といわれる高級貴族なら身につけなければならない情報について『西宮記(せいきゅうき)』という本を著すほどに精通していた。

年中行事書はこの時代に始まる儀式マニュアルの文献、いわば虎の巻であり、高明の岳父藤原師輔の著した『九条年中行事』とその兄の関白藤原実頼の『小野宮年中行事』に始まる。その内容は九条流、小野宮流といわれるように、その子孫たちがいわば秘伝として継承していた。そして高明は、師輔の婿なので九条流を学べる立場で、しかも天皇家の秘伝も知る、最も物知りの貴族になれた。

そしてこの頃には、村上天皇も中宮安子も師輔もこの世にはいなかった。そして「賢い高明様」が師輔の子供たち、摂関家の次世代、さらに藤原氏の氏長者だった関白実頼にも共通の脅威となったのである。

康保4年(967)に冷泉天皇の皇太弟となったのは、わずか9歳の同母弟守平親王(円融天皇)だった。

そして高明は安和2年(969)に、為平親王を天皇に擁立する陰謀の嫌疑をかけられて大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、出家に追い込まれる。同年に冷泉天皇が譲位して、守平親王(円融天皇)が即位する。

この「安和の変」は、醍醐源氏の王権介入を嫌った人々(摂関家すべてかどうかには議論がある)による排斥事件である。しかし円融天皇は即位段階で11歳、当然妻も子もいない。円融に子供が産まれたらどうするかという問題は先送りにされたことになる。