大人になるべきは私たちのほう

もしあなたが、自分が脇へ押しやられるからといって家族生活を腹立たしく思うなら、それはあなたが子どものころに脇へ押しやられ、親の人生について考えたことがないせいかもしれません。うんざりするような気持ちや子どもとの断絶についても同じです。

私が「見捨てる」とか「恨み」といった言葉を使うと、大げさだと思う人もいます。

『子どもとの関係が変わる 自分の親に読んでほしかった本』(著:フィリッパ・ペリー・高山真由美/日経BP 日本経済新聞出版)

「子どもを恨んでなんかいませんよ。ときどき1人になりたいと思うことはあるけれど、子どものことは愛しています」と彼らは言います。

しかし「見捨てる」にも段階があるのです。最も深刻な段階になると、子どもの人生から物理的に消えるという形で完全に見捨てることになります。

しかし「見捨てる」ことのなかには、子どもが関心を持ってもらいたがっているときに押しやるとか、子どもが話そうとしているときに本気で耳を傾けないといったことも含まれると私は考えます。

たとえば、子どもが自分で描いた絵を見せようとしているときもそうです。ある意味で、子どもは絵を通して自分の本当の姿を見せようとしているのです。

子どもを脇へ押しやりたい、ぐっすり寝ていてほしい、1人で遊んでいてほしい、こちらの時間を占領しないでほしいと思うのは、つらい記憶の引き金になるから相手をしたくないと感じているせいかもしれません。そのせいで子どものニーズに素直に応じることができないのです。

子どもを押しやってしまうのは、自分の人生のほかの領域―仕事とか、友人とか、ネットフリックスとか―のためにもっと時間がほしいからだと言いたくなるのもわかります。

けれども、そこで大人になるべきは私たちのほうです。