画期的なビジネスモデル
百福は好奇心が旺盛で、生涯、子どものような好奇心を持ち続けました。それがいつも新しい事業や発明につながりました。
たとえば、カイコを飼っている養蚕農家を見に行った時のことです。農家の入り口に一本のヒマ(トウゴマ)の木が生えていました。葉を数枚ちぎって、こっそりとカイコの前に置きました。するとカイコがヒマの葉をバリバリと食べ始めました。その時、百福は桑の葉ではなく、ヒマの葉でカイコを育て、絹糸を作れないだろうかと考えたのです。
もともとカイコは桑の葉を食べて育ち、真っ白なマユを作ります。そこから紡ぎ出した絹糸で、きれいなシルクを作るのです。普通の人は、ヒマの葉で糸ができたとしても、何の得があるのかと考えます。百福の発想は違います。それも単なる思い付きでは終わりません。すぐに実行に移すのです。
近江絹絲紡績(現在のオーミケンシ)の夏川嘉久次社長(当時)らと相談し、事業化が決まりました。まず、百福が台湾でヒマを栽培する。その葉でカイコを飼育する。ヒマの実からはヒマシ油をとる。マユは近江絹絲で糸にし、福井県にある酒伊繊維工業(現在のサカイオーベックス)が織物にする。それを三井物産が売る、というものです。
ヒマシ油は家庭では下剤として使いますが、当時は飛行機エンジンの潤滑油として旺盛な需要がありました。百福はここまで考えていたのです。ちなみに、ヒマからとれた糸は多少黄色みを帯びましたが、カイコの成長が早いことが分かりました。この一石二鳥、三鳥をねらうアイデアは、戦局が悪化したため中止せざるを得なくなりましたが、当時は画期的なビジネスモデルだったといえます。
「私には学問がない。あるのは実体験だけだ」
百福は高等小学校を出ただけで、大学教育をうけていないことをずっと気にしていました。しかし、図書館の司書をしていた時には、孔子の「論語」、シェークスピアの戯曲、世界の古典を読みました。そこからは知識ではなく、生きる知恵を学んだのです。大阪に出てからは、「商売人もこれからの時代はちゃんとした教育を受けていないとだめだ」と思い、京都の立命館大学専門学部経済科に通います。昼間は社長業があって忙しく、大学に通うのは夜間でした。
百福二十四歳。将来への希望に胸をいっぱいふくらませて、事業と勉学に励んでいました。
同じ頃仁子は十七歳。高等女学校と電話局の掛け持ちで、苦しい家計を支えていました。
二人が結ばれる運命の日まで、あと十年と少しです。