太平洋戦争

太平洋戦争が始まりました。

「帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

百福は台湾に出張中で、嘉義市の日本旅館「柳屋」の畳の上にあおむけになり、ラジオから流れるニュースに耳を傾けていました。

「大変なことになった」

これからどうなるのか。不安な気持ちで日本に戻りました。

国内では、生活必需品の生産や価格などが国の管理下に置かれ、主食の米や燃料などは切符による配給割当制になりました。もうモノを自由に作って売るわけにはいきません。台湾とのメリヤス貿易もできなくなりました。

百福は考えました。

「こんな時代でも、世の中の人に喜んでもらえる仕事はあるはずだ」

片時もじっとしておれない性分だったのです。次から次と、新しい事業を始めます。まず取り組んだのが幻灯機の製造でした。

当時、軍需工場には人が足りず、学徒動員など、徴用で集められた素人の工員ばかりが働いていました。機械の使い方を知りません。そこで重宝されたのが幻灯機です。旋盤やフライス盤などの図面をスライドにして、白いスクリーンに映して教えたのです。その幻灯機の数が足りませんでした。百福は光学機器にはまったくの素人でしたが、持ち前の好奇心を発揮して勉強し、なんとか製品を完成させました。

本土への空襲が激しくなると、百福は兵庫県の上郡に疎開します。そこでも、じっとしていませんでした。疎開した農家の裏山二十五ヘクタールを買って、炭焼きを始めます。燃料の乏しい時代です。一山そっくり炭にして大阪に持ち帰ると、大変喜ばれました。余った炭を南船場の会社の地下倉庫に貯蔵していましたが、空襲で焼けた時、そこだけ最後まで火が消えなかったそうです。会社はもちろん全焼しました。

兵庫県相生市では、戦災で家を失った人々のために、十平方メートルほどの簡易住宅を作る仕事を始めます。共同経営でした。これは規格化された柱や窓枠や壁材を工場でたくさん作っておいて、現地に運び、素早く組み立てるものでした。これなどは、戦後の日本に起こったプレハブ住宅の発想を先取りしたものかもしれません。

百福の仕事は、一見、手あたり次第のように見えますが、そうではありません。

若き日の百福(写真:『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』より)

「何か人の役に立つことはないか。そう思って周りを見わたすと、事業のヒントはいくらでも見つかった」と、当時を振り返っています。

若くして成功した百福は自信にあふれていました。自信が過信につながっていたのかもしれません。その頃、自分の身の上に思わぬ災難が降りかかろうとしていることには気が付きませんでした。