留置場

戦時中のことです。

百福は知人と共同で新しい会社を立ち上げます。

海軍用の飛行機を作っていた川西航空機(現在の新明和工業)の下請けで、エンジン部品の製造を始めたのです。資材は国から支給されます。毎月厳しい点検がありました。

「数が合いません。誰か横流ししているのではありませんか」

ある日、資材の担当者が耳打ちしました。共同経営者はいましたが、会社の責任者は百福でした。思い悩んだ末に、大阪市の東警察署に相談に行きました。

「警察の管轄じゃないので、憲兵隊に行ったらよかろう」と言われます。

憲兵隊は軍の警察組織で、当時は「泣く子も黙る」と言われるほど恐ろしい場所でした。大手前(大阪市中央区)にあった憲兵隊に申し出ると、K伍長という人が応対に出てきました。

「ちょっと待ちなさい」と言って部屋を出ていったきり、戻ってきません。

やましいところはないのに、不安が高まっていきます。長い時間がたって、ふたたび現れたK伍長の態度ががらりと変わっています。

「お前はけしからんやつだ。自分でやっておきながら、他人に罪をなすりつけようとしておる。横流ししたのはお前じゃないか」

話が逆になっています。

「そんなはずはありません。私はやっていません」

懸命に主張する百福に、暴行が加えられました。

棍棒で殴られ、腹部をけられ、あげくには、正座した足の間に竹の棒をはさまれました。拷問です。いつのまにか、「私が犯人です」と認める自白調書が作られていて、判を押せと強要されました。

百福は強情で、正義感の強い人でした。事情を説明すれば分かってもらえる。調べさえすれば真実は明らかになるだろうと信じていました。考えが甘かったのです。後で明らかになるのですが、実は百福を陥れようというワナが仕組まれていたのです。暴行はいつ果てるともなく続きました。

困ったのは食事です。来る日も来る日も麦飯と漬物。食器は汚れていて臭いました。とても箸をつけられません。同じ留置場にいる男たちが、百福の残した食事を奪い合いました。

体力は目に見えて衰えていきました。百福のあまりの衰弱ぶりに同情した人が「明日、シャバに出られる。何か力になれることはないか」と聞いてくれました。

百福は知り合いの井上安正・元陸軍中将に今の窮状を伝えてくれるように頼みました。すると翌日にはもう井上が憲兵隊に現れ、百福を留置場から救出してくれたのです。絶体絶命の危機も、あっけなく幕を閉じました。