そもそも「納言」とは
さて、斉信・公任・行成に源俊賢(としかた。演:本田大輔さん)を加えた4人は、鎌倉時代に編纂された説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、一条朝の、あるいは一条朝の代表的な年号である「寛弘」の「四納言」として紹介されている。
そもそも「納言」と呼ばれる官職には、少納言、中納言、大納言の3種がある。
仕事はそれぞれ違っていて、少納言は政治を行う太政官の下で事務を行う天皇の側近(平安時代にはあまり侍従と変わらなくなる)、中納言は大納言を補佐するために奈良時代に追加された、律令にはない官職で、政策決定の政務会議に参加することができる。
大納言は政務会議に参加するとともに、その結果を天皇に奏上し、天皇の命令を伝える(宣下)ことができるという点で、左右の大臣を補佐する、準大臣ともいえる立場である。
そしてこの4人は、(行成と俊賢は一条朝ではまだ中納言だったが、)この時期に中納言から大納言、あるいは定数外の大納言である権大納言(ごんだいなごん=相撲でいえば大関に対する張出大関のようなものだと思っていただければいい)に昇進したので、「一条朝の四納言」と呼ばれた。一条朝は宮廷政治の「めでたき(素晴らしい)」時代だったので、彼らはその立役者ということになる。
本当かどうかわからないが、鎌倉初期の天台座主(天台宗の本拠、延暦寺のトップ)で摂関家出身の慈円(じえん)が書いた歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』には、右大臣藤原顕光の長男の藤原重家が、政務会議での彼らの議論があまりに高等すぎてついていけず、将来を悲観したのか、従四位下左近衛少将という地位を袖にして出家してしまった逸話を記している。