豊臣秀吉と後北条氏の対立が意味したもの

もともと五代、一世紀にもわたってがんばってきた北条氏です。それだけでも十分に「豊臣秀吉のような、どこの馬の骨かわからない農民上がりに、頭なんか下げられるか」というプライドがあったでしょう。

加えて「鎌倉時代から武士の本場である関東の覇者である」という歴史認識、そして「武士の伝統を受け継ぐのは俺たちだ」という自覚も大きかったのではないかと僕は思います。

日本はもともと西高東低の国でした。文化の先進地域は西の上方で、関東は僻地。実際、江戸も家康が大工事を始めるまで、人も住めない土地だったわけです。

その関東で源頼朝が武家の政権を作った。西国で独立政権を作ろうとしても朝廷は絶対に認めず、威信にかけて潰しにくるでしょう。しかし東国ならば、その余地がある。とは言えやはり簡単ではなく、頼朝は必死に朝廷と折衝を繰り返し、ようやく認められた。そして鎌倉時代は西と東、この場合、朝廷と武士の政権の関係は並び立つかたちで終わりました。

鎌倉幕府が倒れた後、足利尊氏の弟・直義は鎌倉に帰って、もう一度、関東で幕府を開こうと主張した。しかし足利勢はその意見を無視するように京都に進撃して、占領する。

当時は民主主義なんてありませんから、みんなで投票して決めたわけではない。となると”足利氏ナンバー2”である直義の意見を抑え込めるのは尊氏しかいない。つまり京都進出は尊氏本人の意図だったことになります。

尊氏は政権の核として京都を選択し、朝廷と幕府が一体になった。しかし、それなのにまたお互いを切り分けようとしたのが直義でした。

朝廷も武士の権力に包含しようとする尊氏の路線は、孫の足利義満に継承される。そして義満は貴族として出世することで、実際に朝廷を包含し、天皇の権力をも取り込んでいく。だからこそ彼は海外に対して、自分こそが日本のトップ、日本国王であると称したわけです。そのため、将軍の権力が最高潮だった足利義満のときには、朝廷もあまり文句は言えなかった。しかし、明との貿易を再開した六代将軍の義教が、日本国王を名乗ると、さすがにクレームをつけた。

そのときに三宝院満済は「いえいえ、天皇という存在は国王の上の国主です」などと言ってごまかしたのですが、それは誰の目にもごまかしだとまるわかりですね。ちなみに義教は怖い人なので、文句を言った人はみんな殺されたり、左遷されています。

そうしたかたちで天皇と将軍、それから朝廷と幕府が一体になったのが室町幕府でした。そしてその室町幕府の方法論を継ぐ、上方勢力の主権者となったのが豊臣秀吉です。その秀吉と対立する関東の支配者、後北条氏。

つまりこれは朝廷と鎌倉、尊氏と直義、西と東の構図を、戦国時代において再現する構図でもあったのです。