(写真撮影:編集部)

 

 

 そりゃあそうだ。明日美の水着姿など、八歳男児にとっては単に景色の一部だ。四十を過ぎた今ではもう、そういう扱いのほうが気が楽だった。

「そんなことより、早く早く!」

 待ちきれないように、アヤトがその場で飛び跳ねる。こちらは学校指定の水着らしく、『ひいらぎあやと』と腰のところに記名されている。

「滑るから、跳ばない!」

 張り上げた声が、屋内プール特有の響きかたをする。消毒用塩素のにおいも、懐かしい。最後に泳いだのがいつだったか、もはや思い出せなかった。

「いいからほら、ウォータースライダー!」

 区民プールのわりに、ここは設備が充実している。アヤトの指差す先には、ウォータースライダーの青いチューブがとぐろを巻いていた。滑り降りてくる子供たちの歓声が、屋内にこだまする。

 二十五メートルプールのぐるりを囲むのは、流れるプール。どちらも人が多くて、まともに泳げそうにない。水の流れを眺めていたら、だんだん気分が悪くなってきた。

「よし、行くか。滑り倒そう!」

 乗り気のヒロシから浮き輪を受け取ろうと、手を差し出す。持ったままでは、ウォータースライダーは滑れない。

「行ってきて。私、見てるから」

「えっ、いいの?」

 案外ヒロシ自身が、滑りたいだけなのかもしれない。嬉しそうに顔を輝かせた。

「おじちゃん、早く!」

「あ、こら。走っちゃ駄目だぞ。歩きなさい!」

 喜び勇んで駆けだそうとするアヤトを、ヒロシが慌てて追いかける。

 その突き出た腹が揺れながら遠ざかってゆくのを、明日美は手を振り見送った。

 

 区民プールくらいなら、平気だと思ったんだけどな――。

 屋内プールの片隅にあったジャグジーで、明日美はゆったりと体をほぐす。

 ぬるめのお湯と、ぶくぶく弾ける泡が心地よい。本当は手足を伸ばしたいところだが、子供の相手に疲れた大人たちが、入れ替わり立ち替わり温まりにくる。邪魔にならないよう、膝を抱えた。

 水が満々と湛えられていても、川とはまるで景観の違うプールなら、晃斗を失ったときのトラウマが蘇らずにすむ気がしていた。けれど、流れるプールがあったのはさっき知ったばかりだ。

 一方向へと向かう水の流れが、閉ざしておきたい記憶の扉を洗っている。幸いにも流れはゆるく、無理にこじ開けるほどではない。だが触れられたくもない扉を意識させられると、わずかながら神経が削られてゆく。

 なんかもう、情けないな――。

 十年の歳月が流れても、ちょっとしたきっかけであの日に引き戻されそうになる。明日美は目を瞑り、大丈夫、大丈夫と己に言い聞かせる。

 そういえば晃斗を、当時住んでいた地域の市民プールに連れて行ったことがあった。まだ幼くて、子供用の浅いプールで水遊びをする程度だったけど。水に顔を浸けるのが怖くて、あの子は号泣していたんだっけ。

 ふふっと、口元に笑みが浮かぶ。あまり深くまで考えず、晃斗の愛らしいエピソードだけを掬い上げようとする。

 けれど溺れまいと必死にしがみついてくる手の感触まで思い出しそうになり、これは危ういと目を開けた。

「よぉ。風呂で寝たら溺れるぞ」

 いつの間に来たのか、ヒロシがジャグジーの縁に座っている。毎日の配達でTシャツ焼けしただらしない体を、ゆっくりと湯に沈めた。

「アヤトは?」

「懲りずにまたウォータースライダーに並んでる。俺はいったん休憩」

 ウォータースライダーは大人気で、行列が途切れることはない。ヒロシも何度かつき合ったが、子供の体力には追いつけないようだ。

 順番待ちの列にアヤトを見つけ、安堵する。前に並んでいる子と意気投合したようで、なにか言い合い笑っている。

「うちの子らがチビだったころを思い出すなぁ。あいつらも、厭きずにずっと滑ってたわ」

 ジャグジーの水流に背中を打たせ、ヒロシが「やれやれ」と年寄りめいた声を出す。彼が数年前に離婚したことは、噂に聞いていた。

「お子さんたち、いくつなの?」

「中三と中一。どっちも女の子。微妙なお年頃でね、月イチの面会日に会っても、まぁ会話が続かないのなんの。あっちも気まずいからか、あんまり会いたがらないんだよなぁ」