脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈十五〉

 

「おぉい、こっちこっち」

 ヒロシが駐輪場で手を振っている。

 日陰とはいえ、熱気のこもる午後一時。彼のTシャツは、今日も汗で変色している。

 明日美だって、人のことは言えない。アヤトを連れて、炎天下を十五分ほど歩いてきた。キャップを被ってはいても、頬が焼けたように熱かった。

 駄菓子屋の前でヒロシと出くわしてから、三日が経った。土曜日の、午後である。

「いやぁ、今日もあっちぃなぁ」

 ヒロシが己の顔を、手で煽ぐ。Tシャツに短パン、足元はビーチサンダル。膨らました浮き輪に、腕を通して抱えている。

 海のない街中でなんて格好だ、とも思うが、あながち間違ってはいない。待ち合わせていた区民施設には、温水プールがあるのだ。

「浮き輪、使えるんだね」

「そう、流れるプールがあるんだよ」

 駄菓子屋のレトロゲームではしゃいでいた明日美を、ヒロシは笑った。「夏休みだってのに、行くとこないのか?」と、傍らにいたアヤトの頭も撫でた。

 三食を充分に食べられない子供たちを「まねき猫」が受け入れていることは、ヒロシだって知っている。アヤトの家の事情にも、かなり通じているようだ。

 しょんぼりと頷いたアヤトに、ヒロシは「よし、じゃあおっちゃんがプール連れてってやろうか」と豪快に笑いかけた。

「行きたい!」

 アヤトはすぐさま乗り気になったが、赤の他人がそんなに出しゃばってもいいものか。まずは母親であるユリエに確認を取ってからと、逸る二人を宥めながら電話をかけた。

「そんな。すでにお世話になりっぱなしなのに、これ以上ご迷惑をかけるわけには――」

 案の定、ユリエは遠慮の塊だった。代わってくれとジェスチャーで示すヒロシにスマホを渡すと、まるで人が変わったように姿勢を正した。

「いやいや、いいんですよ。迷惑なんてことはない。ほら俺もね、子供たちとめったに会えなくて、寂しいわけだし。えっ、お金? なに言ってんすか。区民プールなんて、小学生は百円ですよ。はい、どうぞお任せください」

 その態度で、勘づいた。ヒロシはユリエを、ちょっといいなと思っている。アヤトを構うのも、下心つきなのである。

 ヒロシも今は、独り身らしい。シングル同士、惹かれ合ったとしても差し支えはない。もっとも、ユリエの意向はどうだか知らないが。

 そんなわけで、土曜日はプールと急遽決まった。ヒロシだけに任せておくのは不安だから、明日美も同行することにした。「まねき猫」のシフトと被ってしまうが、「そういうことなら、タクちゃんを動員するから平気よ」と、ひかりに快く送り出された。

「やった、やった! プール、プール!」

 区民施設の自動ドアを、アヤトはスキップで駆け抜けてゆく。明日美たちと似たような風体の親子連れが何組か、プールの入り口に並んでいた。

「すごい、人気なんだね」

「夏休みの間は、特に混むね。ひどいと入場制限がかかるから、ほら、朝のうちに整理券もらっといた」

 そう言って、ヒロシが『552』から『554』と書かれた三枚の紙を見せてくる。この前後の番号の、入場可能時刻が午後一時半となっている。

「あっ、だから今朝まで集合時間の連絡がなかったの?」

「そうそう。三人で来て、『あと四時間待ちです』って言われてもつらいだろ」

「ありがとう。手間をかけさせちゃったね」

 本当は連絡がなかなか来なかったことに、無精だなぁと呆れていたのだけれど。

 それは言わないことにした。

 

 男子更衣室と女子更衣室に分かれて、着替えを済ませる。

 三歳から小学生までの入場料は百円だが、大人は五百円。付き添いでも水着に着替える必要があるらしく、フィットネスジムに売っていたのを買った。

 思わぬ出費である。こうなったら、お風呂目当てで入会したジムのプールも、たまに利用するしかない。今日の数時間のためだけに水着を買ったなんて、もったいなさすぎる。

「なんだ、ビキニじゃないのか」

 軽くシャワーを浴びて出ると、待っていたヒロシがいかにも残念そうに眉を八の字にした。

 ビキニどころか、レオタード型のワンピースですらない。上は半袖のシャツタイプ、下は太股までしっかりカバーするハーフパンツだ。

「着るわけないでしょ、馬鹿馬鹿しい」

「そうだろうけどさぁ、ちょっとは期待しちゃうじゃん。なぁ、アヤト」

「えっ、どうでもいい!」