セカンドオピニオンを受けに築地へ。一緒に食べた鮨のおいしさ

念のため、セカンドオピニオンを受けてみることにした。築地にある国立がん研究センターに出かけて、専門医に詳しい話を聞いた。主治医とは異なって、もっと率直な言葉で厳しい内容を伝えられた。ひとことで言えば、「緩和ケアしか残されていない」とのことだった。

深刻な話を聞いた後、妻と二人で電車を使って自宅まで帰った。そのころはまだ妻はふつうに歩くことができた。妻はその時も、ふだんと変わりのない態度だった。そもそもがん研究センターに行く前、昼食時だったので、これを機会にと築地に行って鮨を食べた。

すでに市場は豊洲に移っており、閑散としていたが、おいしい魚介類は食べられた。妻は「思ったよりも高い。おいしいけれど、もっと安くていいなあ」などと感想を言いながら、ふつうに平らげていた。築地から豊洲への市場移転問題について自説を付け加えるのも忘れなかった。

もしかして状況を把握していないのではないか、医師の話を十分に理解できずに楽観的にとらえているのではないかとさえ疑いたくなるほどだった。明るい声で、厳しい内容を語った医師についての辛辣な人間観察を披露し、大江戸線の騒音のひどさに怒りながら、家に帰った。そうした態度をとるのはいつものことだった。

そのころだっただろうか。妻がふと漏らしたことがある。

「私、あんまり頭がよくなくってよかった。頭のいい人だったら、きっと癌のことをあれこれ調べたり、考えたりするんだろうけど、私はそんなことないんで、あまり気にせずにいられる」

実感だったのだろうと思う。ただし、「頭が悪いから」というよりも、あくまでも妻の考え方、世界観によるのだと思うが。

※本稿は『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。


凡人のためのあっぱれな最期』(著:樋口裕一/幻冬舎)

嘆かず、恨まず、泰然と「小さき人」として生き、死んでいきたい

61歳、癌で先に逝った妻。身近な死に、何を学ぶのか?

妻が癌で逝った。61歳、1年あまりの闘病生活ののちの早すぎる死だった。家族が悲しみ、うろたえるなか、妻は、嘆かず恨まず、泰然と死んでいった。それはまさに「あっぱれな最期」だった。決して人格者でもなかった妻が、なぜそのような最期を迎えられたのか。そんな疑問を抱いていた私が出会ったのは、「菫ほどな小さき人に生まれたし」という漱石の句だった。
そうか、妻は生涯「小さき人」であろうとしたのか――。
妻の人生を振り返りながら古今東西の文学・哲学を渉猟し、よく死ぬための生き方を問う、珠玉の一冊。