「出産前と同じ」妻を求める夫
“「わたし、なつみを殺してしまう。殺しそうになったの。お風呂に入れてて……このまま、この子の顔を、お湯につけたままにしたら、どうなるかしらって考えて……」”
物語は、妻である莎織の独白からはじまる。莎織は献身的な妻であり母親で、娘にも惜しみない愛情を注いでいた。だが、大きな愛情は時に大きな不安を生む。大切な存在ができると、その存在を失ったらどうしようと不安に苛まれる人は少なくない。なつみがかかった病院の医師は、それを「自然なこと」と説いた。
“愛情が強いほど、失うことの恐れも大きくなるの。もしも愛する我が子を失ったらどうしようと考えて、不安になる。その不安を内側にため込むうちに、知らぬ間にふくれ上がって、負の幻想に呑まれてしまうの。”
その後、医師は「支える側が寛容な態度で相手の不安を受けとめることが大切だ」と語る。その言葉を聞いて、夫の武史は自分が責められたように感じ、尚いっそう頑なになった。専門家が述べる対処法が自分の選んできた行動と真逆だった場合、劣等感を抱く患者家族は多い。だが、その鬱憤を患者本人にぶつければ、寛解への道は遠のく。
“「まるきり、おれのほうが悪かったみたいじゃないか」”
医師の言葉に安堵した患者を責め立て、新たな不安を植え付ける家族。この構図は、さして珍しいものではない。患者家族の日常もまた大変なことは、重々承知している。だが、武史の場合は、ただ逃げていただけだ。家族の問題から、妻が抱える苦悩から、自分だけ見ないふりをして「これまで通りの日常」を求めていただけだ。
元夫は武史と同じで、「出産前と同じ」生活、「出産前と同じ」妻を求めていたのだと気づいた。