今尾さん「パイナップルやスイカ、メロン、イチゴなどは畑またはビニールハウスの記号である」(写真提供:Photo AC)
地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんいわく、「ヨーロッパで興味深いのは、多くの国の地形図で果樹園とは別にブドウ畑が定められていることだ」そうで―― 。

伝統ある桑・茶・果樹園の記号

明治維新を迎えて多くの武士が失業した。彼らに仕事を割り振るのは国家的な急務で、北海道の屯田兵や下総(しもうさ)台地の開墾などに従事させることで、とにかく食えない人を減らす努力が続けられたのである。そんな状況の中でかなり早い時期、明治2年(1869)に東京で始まったのが「桑茶政策」であった。

肥前佐賀藩士出身の大木喬任(おおきたかとう)が東京府知事として進めたもので、農業の素人でも比較的容易に育てられる作物として大名屋敷跡などに桑と茶の栽培を奨励した。 

明治9年(1876)には元佐賀藩主の鍋島家が紀州徳川家下屋敷のあった渋谷の高台の土地を入手、そこに松濤(しょうとう)園という茶園を開き、失業武士たちが栽培の仕事にあたっている。ここは後に宅地化されて昭和3年(1928)には松濤町と名付けられ、現在では高級住宅地の渋谷区松濤として知られるようになった。

明治13年(1880)に整備が始まった2万分1迅速測図にはこの台地に茶畑の記号がびっしり描かれて印象的だ。ただし当時の記号は3つに枝分かれした先に実が付いたような形である。

その後は明治17年(1884)から関西方面で整備が始まった仮製2万分1地形図で現在まで続く∴の形に決まった。お茶の実を横に切った際に種子が3つ並んだ形に由来するという。

日本の茶は幕末からアメリカやイギリスなどへの輸出が始まり、やがて日本の重要輸出品目となった。明治後期に日本の茶の生産は約2万トンに達するが、このうち6割が輸出に回されていた。

最大の輸出先であったアメリカでは緑茶を日本人のように飲むのではなく、ミルクや砂糖を入れていたというから、「珍しい紅茶」といった位置づけだったようだ。近ごろ流行する「抹茶ラテ」の類だったかもしれない。

有数の産地である静岡県では明治32年(1899)に国際貿易港となった清水港が整備され、静岡市の茶問屋から清水港へ茶を運ぶための軽便(けいべん)鉄道も敷設された。現在の静岡鉄道で、ついでながら民謡として定着した「ちゃっきり節」(北原白秋作詞)も、同鉄道の前身が自社経営の遊園地をPRするための歌である。