当座の生活のために整えただけの殺風景な部屋の情景が、薄暗がりの中に浮かんでいた。
「なぁ、ちょっと。飯は?」
ぶっきらぼうにも聞こえるのは、求の声だ。磨りガラスだから、シルエットが映るだけ。それでもそこに、立っていた。
「えっ、なに」
絞り出した声は、掠れている。求は苛立ちを覚えたようだった。
「だから、飯っ。食わなきゃ腹減るだろ」
もう、そんな時間なのか。廊下の電灯がついているおかげで、物の形だけは見える。時間を確認できるものは、手元になかった。
空腹は、微塵も感じていなかった。求がわざわざオーダーを取りにきてくれたのはありがたいが、明日美は「いらない」と首を振る。
「わざわざ聞きに来てくれたのに、ごめんね」
「いや、ごめんねじゃねぇだろ。食えよ」
ガラス戸が、またもや揺れる。軽く叩きはするものの、無理に開ける気はないようだ。一応女性の部屋だから、気を遣ってくれているらしい。
「すぐに出てこい。口に飯を詰め込んでやる!」
「今はいいの。お腹が空いたら食べるから!」
デリカシーがあるんだか、ないんだか。強硬手段に出ようとする求に言い返すと、肩の強張りがふっと抜けた。深く息を吐き、明日美は抱えていた膝を放した。
「騒がせてごめんね。アヤトは?」
「おばちゃん大丈夫かなって心配してたけど、帰ってったよ」
「そっか」
「ヒロシさんも、プールはまずかったって反省してた。謝っといてくれって」
べつに、ヒロシが謝らなきゃいけないことなんてなにもない。これは、明日美の心の問題だ。自分でも、まさかこんなに取り乱すとは思わなかった。
「あのさ、ヒロシさんから聞いたよ。アンタもなんかいろいろ、大変だったんだな」
求のその言いかたに、なぜか笑いだしそうになった。
息子を事故で失った哀しみを、「なんかいろいろ」でまとめてしまう、求の大雑把さが可笑(おか)しかった。でも細やかに気遣われるよりは、そのほうが楽なこともある。
そうかヒロシの奴、喋っちゃったか――。
しょうがない、それがヒロシだ。もはや責める気にもなれない。
「まぁね、昔のことだけど。それでこんなに取り乱しちゃうんだから、情けないよね」
「いや、それは、どうしようもねぇよ」
てっきり笑い飛ばされるものと思っていたのに、ガラス戸の向こうからは、やけに気弱な声が聞こえてきた。これは本当に求なのかと、明日美は思わずそのシルエットを見つめてしまう。
黒いTシャツに、黒いパンツ。着ているものは分かるけど、顔はぼやけてよく見えない。しかも求は、くるりと反転してこちらに背中を向けてしまった。
「俺だっていまだに、電気を消して眠れない。ガキのころは、電気もガスも止められた部屋で、夜を明かすことが多かったしな」
ぽつりぽつりと、彼の身の上が明かされる。明日美はしばらく、相槌を打たずに聞くことにした。
「十六年前、時さんに助けられた一人目の子供は、俺なんだ。一緒に住んでた母親は、男ができるたびどっかに行っちまって、捨てられるまで帰ってこねぇ。出てくたびに五万ほど置いてくけど、そんなの何か月ももたないからさ。たまたま出会った時さんに、食わせてもらってた」
なんでも、求が万引きをして捕まったコンビニに、時次郎が煙草を買いにきていたらしい。薄汚く、髪も伸び放題の求の様子に、現場を押さえたコンビニ店員も困惑していた。万引きしたのは、鮭おにぎり。いかにも訳ありだった。
「とっさに時さんが、『おぅ、ヨシ坊じゃねぇか』とか適当なことを言って、おにぎりの代金を払ってくれたんだ。それからこの店に連れてきて、たらふく食べさせてくれた。泣けるくらい旨かったよ」
そうするうちに常連の「宮さん」がやってきて、児童相談所に通報するべきだと時次郎にアドバイスをした。だがそれを、求自身が「やめてくれ」と断ったという。
「すでに一度、一時保護されたことがあってさ。二ヵ月間、個室に閉じ込められたまま学校にも通えなかった。子供の安全を守るためらしいけど、だからってなんで監禁みたいなことされなきゃいけないのか、納得いかなかった。一生懸命にそう伝えたら、時さんは『分かった』って言って、笑ったよ」
その代わり、腹が減ったらいつでもここに食べにこい。早朝でも、真夜中でもいい。勝手口の鍵は、開けておくから。
時次郎のその場の思いつきが、今も「まねき猫」の方針として受け継がれている。