脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

 だったらどこにいるのだろうと、立ち上がって周りを見回す。歓声を上げてスライダーを滑っているのは、別の子だ。アヤトは、学校指定の黒い海水パンツを穿いていた。水泳帽は、蛍光の黄色だ。

 目立つはずの、黄色の色彩を捜してゆく。いない、いない――。

「おい、どうした。アヤトか?」

 ヒロシも異変を感じ、立ち上がる。それには構わず、明日美は視線を彷徨わせる。

 いない、いない――、いた!

 紛れもない黄色の水泳帽が、流れるプールに見え隠れしている。目を凝らしてみると小さな体がうつぶせに浮かび、バタ足をするでもなく、ただ静かに流されている。

「アヤト!」

 我知らず、金切り声を上げていた。

 ジャグジーから上がり、駆けだしてゆく。引き留めようとするヒロシの声が聞こえた気もするが、もう分からない。

 衆目を集めながら、人の間を縫うようにして必死に足を動かした。監視員が台の上から「危ないから走らないで!」と注意を促してくるが、それどころじゃない。

 流されてゆくアヤトを、早く助けてあげなくちゃ。晃斗みたいに、手遅れになっちゃいけない。早く、早く、早く――。

 流れるプールに飛び込んで、水を掻き分け前に進む。水がやけに、重たく感じる。

 アヤト、アヤト。どうか無事でいて――。

 あと少しで、小さな体に手が届く。そこまできて、アヤトが「ぷはっ!」と顔を上げた。

 必死の形相で近づこうとする明日美と、集まる耳目。尋常ではない周囲の様子を見回して、アヤトはぽかんとした顔で呟いた。

「えっ、なに?」

 

       〈十六〉

 

 アヤトには、申し訳ないことをしてしまった。

 彼の無事が分かったのに、明日美はすでに我を忘れていた。体の震えが止まらなくて、たまらずに泣きだしてしまった。

 ヒロシに宥められても駄目で、けっきょくそのままプールから引き上げることになった。

 アヤトは名残惜しさと困惑の入り混じった表情で、帰路をとぼとぼとついてきた。まだ帰りたくないと駄々をこねることもなく、口を噤んでいるのがなおいっそう可哀想だった。

「ごめんね。おばちゃん、びっくりしちゃって。本当にごめんね」

 謝り続ける明日美の背中を、小さな手が撫でてくれた。まだ幼いのに、すでに世のままならなさを知っているような手つきだった。

「まぁ、しょうがねぇ。いろいろ思い出しちまったんだろ。今日はゆっくりしとけ」

 ヒロシに「まねき猫」まで送られ、そのまま二階へ向かう。店はもちろん営業中で、常連客が濡れ髪のままの明日美をなにごとかと見てきたけれど、気にならなかった。

 ふらふらと階段を上がり、寝起きしている手前の部屋に、膝を抱えて座り込んだ。

 アヤトのフォローをしておきたいが、今は無理だ。呼吸が荒く、喉の奥で木枯らしのような音がする。ひとまずは、自分が落ち着かないと。

 大丈夫、大丈夫だ。アヤトは無事だった。ただ息を止めて水面に浮かび、流れに乗って遊んでいただけ。なにも、悪いことは起きなかった。

 必死にそう言い聞かせても、さっきの光景が、川に浮かんで発見された晃斗のイメージとだぶってしまう。

 明日美はぎゅっと目を閉じて、瞼に映る映像すら遮断しようとする。

 体の震えを止めようとして身を強張らせても、芯のほうがまだ震えている。寒くはないはずなのに、むしろ汗すらかいているのに、止まらない。

 

 どのくらい、そうしていただろう。明日美はふと、自分の体が塩素剤臭いことに気がついた。

 あたりまえだ。ろくにシャワーを浴びていないし、ましてやシャンプーなんてしていない。体からも髪からも、薬臭さが漂ってくる。

 どうしよう。このにおいには辟易するが、ジムのお風呂に入りに行くのも面倒だ。でもやっぱり、このまま寝るのは嫌な気がする――。

 ぐずぐずしているうちに、室内が陰ってきたのが分かる。今何時だろうと思うけど、顔を上げるのも億劫で、明日美は小さく丸まっていた。

 もしかするとそのまま、疲れて寝てしまったのかもしれない。閉めていたガラスの引き戸がふいに揺れて、明日美は「わっ!」と目を開けた。