三食満足に食べられない子供はなにも、貧困家庭にかぎらない。求は被ネグレクト児童だったのだ。

「十三歳になってからは許可を得て、新聞の夕刊配達を始めたから、多少は生活が楽になった。それも、時さんが道筋をつけてくれたんだ。あの人がいなけりゃ俺、今こうして生きてないかもしれない」

 一度だけ、スンと鼻をすする音がした。求との間に、磨りガラスがあってよかった。直接顔を見ていたら、お互い素直になれなかっただろう。

 やっと、腑に落ちた。そんな事情があったなら、求が時次郎に心酔するのも無理はない。

「そっか。アンタもなんかいろいろ、大変だったんだね」

 しばしの沈黙の後、そう返してやると、求も薄く笑ったようだ。黒い背中が、小刻みに揺れた。

「そうなんだよ。だからなんかさ、申し訳なかったと思って」

「なにが?」

「時さんの介護について、あれこれ口出したこと。自分の親には手厚くしてやるんだろうなって言われて、目が覚めた。俺にはたぶん、無理だから」

 大人の男らしからぬ、たどたどしい口調だった。胸の内に残る微かな痛みに耐えながら、喋っている。そのことが、明日美にもよく分かった。

「親の介護のこと、赤の他人のアンタに言われたとたん、吐きそうになった。落ち着いてから、そっかこういうことかって、やっと分かった。他人がどうこう言っていい問題じゃないんだな。身内じゃなきゃ分からないことって、あるもんな」

 親と子の繋がりが、必ずしも美しいものであるわけではない。求はそれを、身をもって知っている。だから我が身に置き換えて考えてみたときに、あれほど取り乱したのだろう。

「まぁね。アンタは心酔してるかもしれないけど、時次郎は父親としては失格だったよ。女の人たちに私の世話を丸投げして、自分は遊び歩いてた」

 そう言いながら、思い出す。それでも時次郎は、明日美を餓えさせたことはなかった。夏の暑さや冬の寒さに、命の危機を感じたこともない。ネグレクト気味ではあったかもしれないが、明日美の心身はすくすくと育った。

 生きるか死ぬかの淵に立たされていた求とは、そのあたりが決定的に違った。

「たしかに時さんは、衣食住さえ与えときゃ、子供は勝手に育つと思ってるふしがあるな」

「アンタはその後、お母さんとは?」

 こんな機会はもうないだろうから、もう一歩踏み込んでみる。求が「ああ」と、天井を見上げるのが分かった。

「相変わらず。男と切れるたび、俺に構いにくる。でもここ二年ほどは見てねぇな。男とうまくいってんのか、俺のこと諦めてくれたのか知らねぇけど。音信がないのはなによりだ」

「そう思ってたらある日突然、お母さんが倒れましたって連絡が警察からきたりするんだよ」

「ああー、そっか。なるほど」

 明日美の状況が、まさにそれだ。十年の音信不通の末に降って湧いた、父の介護。

 決して他人事ではないと、求にも理解できたのだろう。もう一度、「なるほど」と頷いた。

「そりゃあ、きついわ」

 ぼそりと呟く声がした。それっきり、互いに黙り込んでしまった。

 沈黙の中でまた一つ、忘れかけていた記憶を思い出す。小三まで共に暮らした「お母さん」が、出ていった後のことだ。

 去った人を恋しがり、明日美は毎日泣き暮らしていた。「うるさい、もう諦めろ」と業を煮やした時次郎に怒鳴られたのは、五日目のことだっただろうか。明日美も負けずに、「やだ。お母さん返して!」と言い返した。

 時次郎はたちまち困った表情になり、どういう思考回路なのか、「なにが食いたい?」と聞いてきた。

「どんな高いもんでもいいから、言ってみろ。食わせてやる」

 なんだそりゃと思いながらも、明日美は答えた。

「お母さんが焼いてくれた、ホットケーキ!」

 時次郎は「分かった」と頷いて、台所の戸棚にあったホットケーキミックスを取り出し、箱の説明書きを読みながらおっかなびっくりホットケーキを焼いてくれた。

 火加減が強すぎたせいで、表面は丸焦げ、中は生焼けの、ひどい代物だった。それを見て、明日美は「こんなんじゃない!」と声を上げて泣いた。

 濃く跳ね上がった時次郎の眉が、そのときばかりは垂れ下がり、彼もまた、泣きだしそうな顔をしていた。

 

人間で暖をとる坂井家のうめ様(手前)と萩やん(写真提供:坂井さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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