どうやら自分は時次郎が作ったこの場所に、愛着を覚えはじめているようだ。そう気づいたとたん体の強張りがふっと抜けて、その場にうずくまりそうになった。

 カウンターにしがみつくようにして、どうにか堪える。ひかりが柔らかく、目元を緩ませた。

「そう、ありがとう」

 お礼を言わなきゃいけないのは、どっちだろう。晃斗を亡くしてからずっと、明日美は孤独の中を彷徨っていた。贅沢をせず、人と深くかかわらず、必要最低限の暮らしをしてきたし、またそうでなければいけないとも思っていた。

 それなのに時次郎が築き上げた人間関係に揉みくちゃにされて、今では誰かがいつも傍にいる。毎日泣いたり笑ったり怒ったりと、大忙しだ。自罰的な気分なんて、いつの間にやら吹き飛んでいた。

 いいのかな、これで――。

 晃斗のことを、忘れるわけじゃないけれど。その死を乗り越える活力を得るために、ここに居場所を作ってもいいのだろうか。この場に集う人たちを、愛することが許されるのか。

 唇を噛んでうつむくと、吸い殻だらけの床が目に入る。床を灰皿代わりにするなんて文化が違いすぎるとショックを受けたはずなのに、この習慣にも慣れてしまった。

 染まったものだ――と、苦笑する。不思議と悪い気はしなかった。

「ねぇ。あとひとつだけ、お願いがあるの」

 カウンターの向こうで、ひかりが両手を合わせたような気配がする。明日美は何度か瞬きをし、ゆっくりと顔を持ち上げた。

「なんですか?」

 問い返すと、ひかりはおねだりをするように上目遣いになった。

「まねき猫の置物を、経費で買ってくれない?」

 

「まねき猫」という店名の由来を、今まで気にしたことはなかった。

 そういえば、なぜこの名前になったのだろう。

「べつに、時さんが考えたわけじゃないのよ」と、ひかりは軽く肩をすくめた。

 なんでも時次郎が引き継ぐ前から、この店の名前は「まねき猫」だったらしい。そんな可愛らしい店名は似合わないんじゃないかという意見も出たそうだが、他ならぬ時次郎自身が気に入っていた。

「いいじゃねぇか。人のご縁を、たぁんと招いてもらおうや」

 そう言ってどこからかまねき猫の置物を調達してくると、カウンターの上に据えてしまった。

 でも今は、店内を見回してもまねき猫の置物はない。どこに行ったのかと尋ねると、ひかりは床を指差した。

「時さんが倒れたときに、肘が当たるかなにかしたんでしょうね。落っこちて、割れちゃってたのよ」

「あっ、もしかして――」

 はじめてひかりに会ったとき、彼女はカウンターの内側で床を掃いていた。そのゴミが、陶器の欠片だった気がする。

「そう、それ。修復のしようもなく、バラバラになっちゃったの」

 割れてしまったものは、しょうがない。でもまねき猫の置物は、長年この店のシンボルとして扱われていた。なくなってしまうと、やっぱり寂しいとひかりは言う。

「たしかに、物足りねぇな。俺もガキのころから、ずっと見てきたから」

 片づけをしながらも、会話は耳に入っていたらしい。求が水道の蛇口にホースを繋ぎながら、話に割り込んできた。

 時次郎が倒れると共に、割れてしまったまねき猫。彼はもう厨房に戻れないけど、店はまだ終わりじゃない。これからも、人の縁は繋がってゆく。

「もちろん、いいですよ。買いましょう」

 断る理由はなかった。店の備品なのだから、経費で購入するのも当然だ。

 でもまねき猫って、どこに売っているんだろう。

 小さいものならともかく、店に飾るような置物サイズはなかなか見ない。縁起物を集めた雑貨屋が、どこかにあるといいのだが。

「俺も、ちょっといいか」

 明日美が首を傾げていると、求が肩の高さに手を挙げた。

「なに?」

「キョウヤのことなんだけどさ」

 求は苦い顔で、帰ったばかりのアルバイトの名を口にする。

「あいつの大学、夏休みが九月いっぱいまでらしくて」

 明日美は「へぇ」と相槌を打つ。大学のスケジュール感が、いまひとつ掴めない。休みが九月いっぱいまでとは、長いものだ。

「来月からは、あんまりシフトに入れないらしいんだよな」

 キョウヤには土日と定休日の火曜を除いて週四日、夜間のシフトを埋めてもらっていた。

 それが、入れない?

 側頭部をガツンと殴られたような衝撃を覚え、明日美は「へっ?」と目を見開いた。

 

呉越同舟の坂井家の萩やん(左)とうめ様(写真提供:坂井さん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂井希久子さんの小説連載「赤羽せんべろ まねき猫」一覧

 


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