〈十七〉
夏休み最終日、アヤトはようやく宿題の絵を描き終えた。
明日美と共に、レトロゲームを楽しんでいる絵だった。人もゲームも平面的に、水彩絵の具で彩られていた。
「プールの絵じゃないんだ?」
「うん、青の絵の具があとちょっとしかなかったから」
それは盲点だった。
その絵が担任教師から、どう評価されたかは知らない。新学期になり学校が始まると、アヤトは土日くらいしか「まねき猫」に顔を出さなくなった。少し寂しい気もしたが、給食でお腹が膨れているなら、なによりだった。
九月半ばに差しかかっても、暑さは収まる気配を見せない。
もはや、残暑というレベルではなかった。九月はすでに秋ではなく、夏のカテゴリーに入ってしまったと諦めるべきだ。
満員電車から吐き出されるようにしてホームに降り、明日美はふぅと息をつく。
コロナ禍を機にリモートワークが定着するかと思われたが、五類感染症に移行したとたんに取りやめた企業が多いのか、通勤電車の人混みも戻ってきた。明日美の場合、出勤は昼近くだからまだいいが、帰りはそれなりに混み合う。
赤羽は四路線が乗り入れるターミナル駅だ。ここで降りる人は多く、エスカレーターには行列ができていた。階段を使う気にはなれず、明日美は大人しくその最後尾に並ぶ。
コールセンターと「まねき猫」のダブルワークにも慣れてきたと思っていたが、夏が長すぎるせいか、疲れが出てきた。どこが悪いというわけでもないけれど、なんとなく力が出ない。帰ったら、スタミナのつくものが食べたい。
とはいえ、金曜の夜だ。店の混み具合によっては手早く食べて、ホールを手伝わなければ。
忙しいことである。近ごろ、考えなければいけないことがまた増えて、心身共に休まらなかった。
ストラップが肩に食い込む通勤用のバッグには、介護施設の資料が入っている。時次郎が入院している病院のソーシャルワーカーが、「ご参考までに」と用意してくれたものだ。退院後に在宅介護を選ばないのなら、どの介護施設に入れるかを決めなければならない。
今の病院には最長で、あと百二十日ほどいられるはず。それでも施設探しは、早めに動きはじめたほうがいいという。
「入居先の施設が決まってから、連携する病院との調整に一ヵ月程度かかりますので。遅くとも十二月の半ばまでには決めてくださいね」
そう言われたときは、三ヵ月もあれば余裕じゃないかと思ったのだが。資料をぱらぱらめくってみると、大変さがだんだん分かってきた。
なにせ東京都北区に限っても、施設の数は膨大だ。しかも明日美が思っていた以上に、介護施設には種類がある。
要介護者向けの施設だけでも、主に六種類。そのうち介護老人保健施設は在宅への復帰を目指す性格のもので、グループホームは認知症に特化している。どちらも時次郎のケースには当てはまらないから、まずこの二つは却下だ。
残るは特別養護老人ホーム、介護医療院、介護付き有料老人ホーム、住宅型有料老人ホームの四つ。そのうち特別養護老人ホームと、介護医療院が公的施設となる。
特別養護老人ホームは、原則として要介護三以上から入居が可能。介護医療院は要介護一以上で、医師や看護師による医療も受けられる。
民間施設に比べれば費用を安く抑えることができるから、明日美としては公的施設を選びたい。でも考えることは皆同じで、どこも満員であるばかりでなく、待機者までいる。申し込みをしたところで一年も二年も待たされるんじゃ、退院時期に間に合わない。
本当に、どうすりゃいいってのよ――。
駅の改札を通り抜け、明日美はこめかみを揉む。それぞれの施設の特性を理解するだけでも、頭が痛くなってくる。さらにこの中から条件に合う施設をピックアップし、見学をして回り、申し込みをして――。それでも、受け入れてもらえるかどうかは分からない。
やるべきことが多すぎて、考えるだけで嫌になる。明日にでも、タカエに相談してみようか。
幼馴染のタカエはマイホームを購入して、練馬区に住んでいるらしい。思いきって電話をかけてみると、「よっ、久し振り」と、軽い口調で応じてくれた。十年間の空白など、まるでなかったかのように。
その気遣いがありがたくて、鼻の奥がつんと痛んだ。もしかすると涙声になっていたかもしれないが、明日美も「うん、久し振り」と返した。互いを許し合うには、そのやり取りだけで充分だった。