貴族たちの遊びから生まれ、やがて「俳句」となった

私も中国を訪れた時、大学の師であり俳人(桐雨)でもあった暉峻康隆先生のツアーで、その真似をしたことがある。

鵞池(がち)という王羲之ゆかりの蘭亭(浙江省紹興市)の庭の池のまわりに好きな場所を占め、池の流れに沿ってゆらゆらと酒を注いだ盃がまわってくるまでに次の句をつけてゆく。

『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(著:下重暁子/草思社)

難しいが楽しい遊びであった。

三十六歌仙巻き終わった時の満足感! 十人ほどの参加者の頬は、酒のほてりも加わりほの赤く輝いていた。

暉峻先生もいつにも増して満足げであった。
もともと貴族達の遊びだが、こうした和歌、連歌の流れから、江戸になって庶民の文芸になり連句と呼ばれるようになる。

俳句という名称は明治期、正岡子規にはじまり、高浜虚子が提唱して以降、定着したといわれる。