清少納言は短歌が苦手だった?
今の時代、エッセイと一般的に呼ばれるものは、随想でもあり評論でもあり、様々なジャンルを含んではいるが、「枕草子」がより多く著者の思いを率直に投げかけている所に私は共感を覚えている。
俳句は一つの絵を切り取るものであるのに比べ、短歌はその絵に対する解説が必要になる。五七五の俳句なら、言い切って終わりとなるものが、そのあとに七七と付く短歌となると、五七五でさし出した素材に対する感想を加えなければならなくなる。
私自身、長らく俳句で遊んできたが、その後に七七が必要となると素材に対する感想を言わなければならなくなるのが面倒なのだ。
無理やり悲しいだの、嬉しいだの付け加えたものは決していい作品にはならない。
清少納言は和歌が得意ではなかったのではないか、というのは彼女の和歌はあまり残っていないからだ。
あれだけの才女だから、いくらでも作れたし、作ったであろうけれど、彼女自身、あの和歌ののどかな調子に身を委ねることを快しとしなかったかもしれない。漢詩、漢文から文学に入ったことと決して無縁ではない気がする。
※本稿は『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(草思社)の一部を再編集したものです。
『ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言考』(著:下重暁子/草思社)
清少納言の人物像に迫る
新機軸の生き方エッセイ!
いかに生きて いかに死ぬ?
「枕草子」に学ぶこれからの人生
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で平安時代に注目が集まるなか、
紫式部のライバルとして名高い清少納言にもスポットライトが当たっている。
「私は紫式部より清少納言のほうが断然好き」と公言してはばからない著者が、
愛読書「枕草子」をわかりやすく解説しながら、「いとをかし」的前向きな生き方を、
現代を生きるシニア世代に提案する新しいタイプのエッセイ。
縮こまらず、何事も面白がりながら、しかし一人の個として意見を持ち
自立して生きていくことの大切さを説く、87歳渾身の書き下ろし。