「奥の細道」は発句集だった
数人から十人、それ以上のこともあって連句が作られ、その中の最初の一句、発句と呼ばれるものを中心人物の宗匠が詠む。
その五七五、だけを選んで作られた発句集が芭蕉の「奥の細道」であり、「笈(おい)の小文」や「猿簑(みの)」だったのである。
そして江戸時代に全盛をきわめ、明治になってから、正岡子規が五七五だけで独立した文芸として「俳句」と名付けたのである。
ここに至って平安朝から日本の文芸の中心であった和歌が基本となって、短歌と俳句と川柳に分かれた。生みの親は同じでも、それぞれが短詩型の独立した文芸になってみると、見事に違うものになった。
清少納言の文体はもともと短詩型の趣があったが、さらに言えば短歌より俳句に近かった気がするのだ。