先輩方は小さなお盆の上に香合(こうごう)をのせた盆香合のお稽古の準備をしていた。いつも1人3パターンずつ、お稽古をするのである。客人役の私はそれを眺めながら、
(お香が練香ではなく香木になるので、お香元は聞かなくてよかったのだな)
と何度も頭の中でシミュレーションしていた。すると霊芝(れいし)を象った香合が、若狭盆という小ぶりな正方形のお盆の上にのせられて登場してきた。そのお盆の向かい合う二辺を両手で持って、90度ずつ回転させる手順がものすごく難しそうだ。右手で右上角を持ったり、真ん中を持ったりする。正面を相手に向けるのに、一度でぐるっと回すわけではないのだ。それを見ながら、
(もしかして、あれを私もやるのかも)
と気がついた。こちらに正面を向けるのは、私が香合の拝見をするためである。拝見し終わったら、今度はこちらが亭主に対して、正面を向けなくてはならないので、同じことをしなくてはならない。
(ええーっ、全然、わからん)
焦っていると、師匠が、
「はい、右手で右上角、左手は左下角……」
と遠隔操作してくださり、何とか正面を向けて亭主にお戻しできた。
(本当にいろいろと出てくるなあ。私のこの、前期高齢者の脳で覚えきれるのか)
と不安になってくる。覚えられなくてもいいけど、忘れなければいいかと思ったが、現状としては教えていただいたことをぼろぼろと忘れているので、今度、いったいどうなるかわからない。少しでも記憶がとどまるように努力するだけである。
※本稿は、『老いてお茶を習う』(著:群ようこ/KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
『老いてお茶を習う』(著:群ようこ/KADOKAWA)
齢六十八にして、お茶を習うことになった。果てがない稽古が始まった。
齢六十八にして、お茶を習うことになった。事のはじまりは、今から二十年以上遡るのだが、当時、私の担当編集者の女性と、還暦を過ぎたとき、自分たちはどうしているかといった話をしていた。私は、
「いつまで仕事をいただけるかわからないけれど、仕事があればずっと続けていると思いますけどね」
といった。私よりも二歳年上の彼女は、
「私はお茶の先生ができればいいなと考えているのですけれど」
というので、
「そうなったら、私もお弟子になる」
といったのである。(本文より)