「少しだけ、考えさせて」
あとはただ、明日美が腹を決めるだけ。分かっているのに、その場で発案することは避けてしまった。
我ながら、往生際が悪い。
「まねき猫」の存在は、すでに自分の一部となりつつあるのに。すべてを受け入れるにはまだ、わだかまりが残っている。
だってまだ、私はお父さんのことを許せていない――。
時次郎はなにも知らぬげに、ベッドの上でいびきをかいている。病体の父を責めてもしょうがないけど、たったひと言でいい。「今まですまなかった」という、心からの謝罪がほしかった。
それだけで、胸のつかえが少しは下りる。私も意地を張ってしまったと、素直に認めることができる。
でも、無理なんだろうな――。
依然として時次郎には、人の見分けがついていない。担当医や看護師のことは、服装でそれと認識しているだけのようだ。
こんなことになると分かっていれば、前もって時次郎と、和解しておこうと思えただろうか。
「山田さぁん、お熱計りましょうか」
隣のベッドに看護師がきて、思考が一時中断される。
この病棟には脳血管障害の患者が集められており、それぞれの後遺症の程度に合わせてリハビリを受けている。社会復帰が叶う人もいれば、時次郎と同じように、退院後は施設への入所を検討している人もいることだろう。
スマホをバッグに仕舞い、明日美は鼻から大きく息を吐く。
親が突然倒れるなんて、よくあることだ。体の自由が利かなくなって、介護が必要になることだって。
けれども、いざ「倒れた」という連絡が入るまで、その可能性を考えもしなかった。時次郎は元々血圧が高い上に、大酒飲みだったのに。ずっと前から、脳血管障害予備軍だったはずなのだ。
けっきょくそのときになってみないと、人ってなにもできないんだな――。
備えあれば、憂いなし。でも目先のことで精一杯だから、明日美はいつも憂えてばかりだ。
なんにせよ「まねき猫」の人員補充に関しては、早く決断を下さなければ。
明日美がコールセンターを辞めるにしても、事前準備が必要だ。人材の入れ替わりが激しい職場とはいえ、少なくとも退職の二週間前までには申し出ておかねばならない。
そうなるともう、日数に余裕はなかった。週明けすぐにでも、上司に退職の意思を伝える必要がある。
悩んでいられるのは、今日いっぱいまでということか。本当に行き当たりばったりで、我ながら嫌になる。
ひとまず、帰ろう。そろそろ面会時間も終わるころだ。
バッグのストラップを肩にかけ、丸椅子から立ち上がる。その際に椅子の脚を蹴飛ばして、思いのほか大きな音が出た。
「あっ、すみません」
同室の患者さんたちを驚かしてしまったかもしれないと、明日美は慌てた。
カーテンで隔てられているから、周りの反応は分からない。もう一度、「失礼しました」と謝った。
椅子の音が耳障りだったのか、それとも明日美の声が聞こえたのか。ふと見れば、時次郎の目が開いている。寝ぼけているかのように、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「ごめん、起こしちゃったね」
あとはもう、帰るだけだったのに。安眠を妨害してしまったと、小声で詫びる。
その声を追いかけて、時次郎の眼差しがゆらりと動いた。瞳の色が薄くなったように見えるのは、黒目の縁が白濁しているせいだ。
白内障の気があるのではないかと、まずはじめに疑った。だがこれは老人環という老化現象で、視力に問題はないそうだ。
そうは言っても淡い色の瞳に見据えられると、不安になってくる。脳出血の後遺症だってあるはずだ。時次郎の目に、世界はどのように映っているのだろう。
「具合はどう?」
はかばかしい返事はかえってこないと分かっていても、時次郎があまりにじっと見つめてくるものだから、気まずくなって問いかけた。
時次郎は、やはり無言のまま。不思議そうな眼差しを向けてくる。
ぼんやりしていたその瞳に、ふと光が宿った気がした。
「あう」
乾いた唇が、ゆっくりと動く。
相変わらず、呂律は怪しいままである。でもたしかに、時次郎はこう言った。
「あすみ、か?」
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