為時の越前守任官

長徳2年(996)正月25日におこなわれた、つまり道長が執筆(しゅひつ。除目<じもく>の上卿<しょうけい>)を務めた最初の除目において、為時はじつに10年ぶりに官を得た。

この年の除目は大間書(おおまがき)という任命者の名簿が残っていて、越前守(えちぜんのかみ)に「従四位上源朝臣国盛(くにもり)」、淡路守(あわじのかみ)に「従五位下藤原朝臣為時」という名が明記されている。

為時は、この年正月6日におこなわれた叙位で従五位下に叙爵されていたのであろう。

通常、受領(ずりょう)の任官は申文(もうしぶみ)を提出して、そのなかから選ばれるが、10年間も無官で五位に叙されたばかりの為時としては、下国(げこく)の淡路守くらいが適当だと判断したのであろうか。

『紫式部と藤原道長』(著:倉本一宏/講談社)

ところが3日後の28日、国盛の越前守を停め、為時を越前守に任じるという措置が執られた。

『日本紀略)』は、「右大臣(道長)が内裏に参って、にわかに越前守国盛を停め、淡路守為時をこれに任じた」と記している。

これが信頼できる唯一の史料である。

『小右記(しょうゆうき)』の写本は正月後半は残っておらず、逸文は除目で伊周の円座(わろうだ)が取られていたことを記すのみ、『権記(ごんき)』はこの年は5月までの記事を欠いており、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』はこの年はまだ本格的に記録されていない。