決定的に異なる
国文学者の清水好子氏が指摘されるように、紫式部にはその後の1年ほどの越前滞在で、その風物を詠んだ歌はない。
国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう。
歌集の編集にあたって捨てたものか、それともまったく詠まなかったのであろうか。
その点、国司としての責任感にあふれる『万葉集』の大伴家持(やかもち)とは決定的に異なるのである。
国文学者の清水好子氏が指摘されるように、紫式部にはその後の1年ほどの越前滞在で、その風物を詠んだ歌はない。
国内のあちこちに出かけることは、ほとんどなかったのであろう。
歌集の編集にあたって捨てたものか、それともまったく詠まなかったのであろうか。
その点、国司としての責任感にあふれる『万葉集』の大伴家持(やかもち)とは決定的に異なるのである。