二人の消息を、聞かれたのははじめてだった。義理の息子だった男と孫の名を、ふいに思い出したのだろう。
明日美は愕然として振り返る。その顔を見て、時次郎も目を見張った。
記憶の糸が、ゆるゆると繋がっていったようだ。時次郎は吐く息に乗せて、「ああ、そうか」と呟いた。
「そうか、そうだったな」
再び時次郎の目が閉じられる。痛みに耐えるように、ぎゅっと強く。
眉間に寄せられた皺が、小刻みに震えていた。
明日美はしばらく、秒針の音を聞いていた。
手元にアナログ時計はないから、カーテンの向こうにいる同室の患者の持ち物だろう。カチ、カチ、カチと、やけに大きく響いている。
「そろそろ、行かなきゃ」
洗濯物が詰まった袋を手に、立ち上がる。駐車場に、求を待たせていた。
「これから、引っ越しなの」
いよいよ笹塚のアパートを、引き払う。荷物はそれほど、多くはない。「業者を頼むまでもねぇだろ」と、求が手伝ってくれることになった。
「そうか」
言葉少なに応じ、時次郎は己の足元を見つめる。明日美が「まねき猫」の二階に越すことは、前もって伝えてあった。
「おれのものは、ぜんぶ、すてていいからな」
時次郎は知っている。あの場所にはもう、二度と戻れないと。「タクちゃん」たちと馬鹿騒ぎしながら、酒を酌み交わすこともないのだと。
なんと返していいか分からず、明日美は面会者用の丸椅子をベッドの脇に寄せる。気まずさを紛らわせるために、「あ、そうだ」とわざとらしく顔を上げた。
「銀行口座の暗証番号、思いだせた?」
これまでにも、何度かした質問だ。年金などが振り込まれる、時次郎名義の銀行口座。その暗証番号が、分からないままだった。
時次郎は一点を凝視して、なにごとか考え込んでいる。沈黙が、長く続いた。
やっぱり駄目か――。
諦めて、「もういいよ」と声をかけようとする。その前に、時次郎がぽつりと呟いた。
「3453」
「えっ、ちょっと待って」
数字を書き留めようと、慌ててスマホの画面を開いた。アプリのメモ帳に、ぽちぽちと打ち込んでゆく。
「3453で、いいのね。本当に合ってる?」
「あってる」
確信ありげに、時次郎は頷く。その自信はどこからくるのかと訝りながら、明日美はあらためて画面上の数字を目で追った。
「あっ!」
やっと気づいた。これは、語呂合わせだ。
「み、よ、こ、さん?」
読みかたを変えると、ある女性の名前になった。
確認するように、明日美は上目遣いに父を見る。頭を使って疲れたのか、時次郎は肯定も否定もせず、眠そうに目を瞬いた。
「ちょっと待ってよ、お父さん」
勝手に寝ないでと、肩を掴む。だがこっちは、麻痺しているほうの左肩だ。掴まれたところで、時次郎はなにも感じない。
たるんだ瞼が、すとんと落ちる。
「――すまなかったな」
寝入り端、時次郎は誰にともなく、そう呟いた。