トイレを済ませ、立体駐車場へと向かう。
面会は家族のみというルールを律儀に守り、求はレンタルした軽トラの運転席で、口を開けて居眠りをしていた。
コツコツと、助手席の窓を叩く。求はびくりと飛び上がるように目を覚まし、内側から鍵を開けてくれた。
「なんだよ、遅いよ。面会時間、二十分じゃなかったのかよ」
「ごめんごめん、ちょっと手こずっちゃってね」
下手な言い訳をしながら、助手席に滑り込む。荷物は膝に乗せて、シートベルトを手繰り寄せた。
「なんだ、どうした」
なるべく求のほうを見ないようにしていたのに、さっそく気づかれた。
「え、なに?」と、明日美は空惚ける。
「目、真っ赤だぞ」
「ほんと?」
知らなかったとばかりに、ルームミラーを覗き込む。さっきよりはマシになったが、目の縁がほんのりと充血していた。
「ああ、ブタクサかな」
「花粉症?」
「検査したわけじゃないから、分からないけどね」
嘘だ。日本人の二人に一人は花粉症と言われているこの時代に、明日美はなんの自覚症状もない。目が赤いのは、さっきトイレで泣いてしまったせいだった。
時次郎の銀行口座の暗証番号は、「みよこさん」。明日美が小学三年生のときに出ていった「お母さん」の名前が、まさに美代子だ。
別れがくるその日まで、本当の母親だと信じていた女の人。時次郎には常に他の女の影がちらついていたけれど、共に暮らしたのはあの人だけだ。実の親子だと明日美に錯覚させるくらい、「お母さん」はあのアパートの一室に溶け込んでいた。
どうして「みよこさん」を、暗証番号に――。
偶然の一致とは、考えられない。「お母さん」とつき合っていたころに口座を開設して、設定した番号がそのままになっていただけかもしれないけれど。いずれにせよ暗証番号を恋人の名前にするのは、なかなか乙女チックな行為である。
あのがさつな大男に、そんなセンチメンタリズムが備わっていたなんて。時次郎は明日美が思っていたよりずっと、「お母さん」に惚れていたのだ。
本当に、馬鹿なんじゃないかな――。
頭に思い浮かぶのは、生焼けのホットケーキを前にして、今にも泣きだしそうな顔をしていた時次郎だ。
そんなに「お母さん」が好きだったなら、もっと大事にすればよかったのに。彼女の献身をあたりまえのように受け止めて遊び歩き、ついには見放されてしまった。
それは時次郎の、甘えだ。大事な人ほど、どこまで許されるのか試したくなって、ぞんざいに扱ってしまう。勘当状態にある実家の家庭環境となにか関わりがあるのかもしれないが、そのあたりは明日美のあずかり知らぬところだった。
理解できたのはただ、時次郎が「お母さん」を愛していたらしいということ。そしてたぶん明日美や晃斗のことだって、あの人なりに愛していたのだろう。
馬鹿。信じられないくらいの、大馬鹿――。
胸の内で詰(なじ)ったら、また涙が出そうになった。痒いふりをして、目を擦る。
「薬局寄るか?」と言いながら、求が車のエンジンをかけた。カーラジオが復活し、唐突に音楽が鳴りはじめる。
「ううん、大丈夫」
ここ十年くらいのヒットチャートには、まったくついていけていない。ポップな楽曲を右から左へ聞き流し、明日美は首を横に振る。
「じゃあ、このまま笹塚に向かうぞ」
「うん、お願い」
今日は火曜日。「まねき猫」の定休日だ。休みの日に引っ張り出してしまった求には、昼食を奢る約束になっている。
思いのほか安全運転で、軽トラは国道17号を南下してゆく。沈黙を埋める役目は音楽に任せて、ぼんやり窓の外を見ていたら、途中の歩道に若い親子連れの姿があった。
三、四歳くらいの男の子を真ん中にして、父親と母親が両側から手を繋いでいる。なにか可笑しいことでもあったのか、子供は天を仰いで笑っており、傍目には幸せそうな光景だ。
かつては明日美も、手にしていたはずの幸せ。失ったものが浮き彫りになるから、こういうときはそっと目を逸らしていたものだけど。ふと気づけば、微笑ましく眺めている自分がいた。
「――すまなかったな」という、時次郎の声がよみがえる。
あれは「お母さん」への詫びなのか、それとも明日美に向けたものだったのか。
あのひと言ではなにも帳消しにならないし、「いいのよ」と許してやることもできない。それでもほんの少しだけ、ごくごく微量ではあるけれど、胸のつかえが取れた気はする。
馬鹿なのは、私もか――。
自分の単純さに苦笑してから、明日美はすでに見えなくなってしまった親子連れに向けて、微笑みかけた。
『何年、生きても』好評発売中!
ベストセラー『妻の終活』の著者が贈る、永遠の「愛」の物語。
優柔不断な夫に見切りを付け、家を出て着物のネットショップを営む美佐。実家の蔵で、箪笥に隠された美少女の写る古写真を見つけ……。