脳出血で父が倒れた――。離婚時に、折り合いの悪い父・時次郎との同居を選ばず、この10年連絡すら取り合っていなかった42歳の明日美。実家からは勘当されとっくの昔に母に逃げられている父にとって、一人娘である明日美は唯一の身内であり、入院先の看護師から留守電が入っていた。久しぶりに赤羽駅へ降りたち、病院に駆けつける明日美だったが……。

      

       〈十九〉

 

 病室の窓から見える中庭に、車椅子を押して散歩をしている人の姿がある。銀杏の木は黄色く色づき、陽射しに照り映えていた。

 地球温暖化の影響か、今年は十月に入っても平年より暑い日が続いていたが、下旬ともなるとさすがに落ち着いてきたようだ。青く澄んだ空をヒヨドリが、「ヒーヨ!」と甲高く鳴きながら横切っていった。

『時さん、転院おめでとう。早くよくなって、帰ってきてね』

 明日美が手に構えたスマホから、ふぞろいな声が聞こえる。続いて子供の、「キャハッ」という笑い声。そこでいったん、停止ボタンを押す。

 ずいぶん前に撮ったまま、忘れていた「ビデオレター」だ。ベッドのリクライニングを起こし、時次郎がスマホ画面を見つめている。

「分かる?」

 尋ねると、時次郎は色の薄い目をこちらに向けて、微かに頷いた。

 動かせるほうの右手が、ゆっくりと持ち上がる。人差し指を立てて、画面に映る一人一人を指していった。

「タクちゃん、みやさん、ひかり、もとむ、アヤト」

 呂律は怪しいが、聞き取れないほどではない。友人たちの顔と名前も、識別できている。

 脳機能というのは、不思議なものだ。明日美を認識できた日を境に回路が繋がりだしたらしく、時次郎は少しずつ記憶を取り戻していった。

 それと共に身体機能にも回復が見られ、十月のはじめには経鼻チューブが外されて、今は口からものが食べられるようになっている。一時は胃ろうも視野に入れるよう言われていたのに、それを思えば大きな進歩だ。

「みんな、げんきか?」

「うん、元気すぎて騒がしいくらい。お父さんに、会いたがってるよ」

 とはいえ今は新型コロナだけでなく、インフルエンザも流行っている。病院の面会制限は、当分緩和されることはない。

 そんな事情を知ってか知らずか、時次郎は苦々しげに口元を歪めた。

「あったところで、なぁ」

 嚥下機能は戻っても、左半身の麻痺は不可逆的な障害だ。体も細り、別人のような風貌になってしまった。「タクちゃん」たちに会ったところで、ショックを与えるだけだと言いたいのだろう。

 動画を見ただけで疲れたのか、時次郎が目を閉じる。仕方なく、明日美はスマホを引っ込めた。

 老けたな、とあらためて思う。ただ痩せたというより、肉が削げた。長らく経鼻チューブを入れていたせいか、顔が歪んでいるし、再会したばかりのころより髪も減った。

 そのくせなぜか、鼻毛だけは勢いがいい。生命の躍動がその一点のみに集中しているかのように、もさもさと生えてくる。見かねてたまに切ってやるが、いつの間にやら繁茂している。

 ホルモンの分泌が、おかしくなってるのかな。

 そんなことを考えていたら、時次郎の瞼が周りを窺うようにそっと開いた。

 穏やかな目をしている。一度死の淵を彷徨ったせいか、俗世の脂っぽさが拭い去られ、眼差しには諦観すら滲んでいた。

 変わり果てた時次郎を前にすれば、「タクちゃん」たちはショックを受けるかもしれない。だが明日美は割れるような大音声で喋っていたかつての時次郎より、むしろ今の父といるほうが胸の中が穏やかだった。

 威圧感が、ないからだろうか。舌がうまく回らないから、余計なことも言ってこない。目の前にいるのは、ただの無力な老人だ。

 あらためて、明日美はスマホを構え直す。今度は液晶画面ではなく、カメラを時次郎に向けた。

「お父さんも、撮る? ビデオレター」

「いや、いい」

 力なく、時次郎は右手を振る。手の甲に、濃いシミが浮いていた。

 淡いピンクのカーテンが、風を孕んで揺れている。明日美は立ち上がり、換気のために開けておいた窓を閉めた。

「みんな、げんきか?」

 その背中に、時次郎が問いかけてくる。会話がループするのは、よくあることだ。

「うん、元気よ」

「ともゆきくんや、あきとも?」

 喉の奥が、ヒュッと鳴った。智之は、別れた夫の名前だ。