文字通り、金を「湯水のように」使う日々

離婚してからはさらに、飲んで遊んで……、が激しくなる。

中でもすさまじかったのは、新宿2丁目の『ひとみ寿司』だ。2階の6畳の部屋に、多いときには30人も入って遊んでいた。

(写真提供:Photo AC)

名前を挙げれば、タモリ、所ジョージ、高見恭子、高平哲郎、山本晋也、坂崎幸之助、嵐山光三郎、篠原勝之……。テレビディレクター、プロデューサー、タレントの卵、売れない芸人、俳優、ポルノ女優、種々雑多な職業の男女が集まった。

寿司は禁止。焼酎のほうじ茶割り、氷水に入れたキャベツをムシって胡椒をかけて食べる、だけがツマミだった。

「それでも月200万円くらい払ってた。ひとみ寿司のおかげで、みんな育ったじゃない」と赤塚。

新宿ゴールデン街にもよく顔を出した。

ゲイバーと安いバーが混在。作家、映画・演劇関係者などジャンル別にひいきの店がわかれていた。しかし赤塚は委細かまわず「楽しいところ」はどこへでも行った。

『ユニコーン』には大島渚、若松孝二ら映画関係者が集まった。

『ナジャ』には篠山紀信、大森実、藤本義一がいた。

『まえだ』は野坂昭如の行きつけの店だった。田中小実昌、唐十郎もいた。

『状況劇場』を主宰していた唐は2丁目の『紅テント』で公演していた。

赤塚は「雨が漏って客が濡れちゃうからかわいそうだと思って、テント買ってやるって言ったの。二、三百万円って言ってたのに、実際には600万円だった」と、唐との関係を話した。

カンパも惜しまなかった。

『おそ松くん』が大当たりして、赤塚はにわか成金になった。

66、67年ごろは、新宿税務署で納税者番付3位、中野税務署で2位の高額納税者になった。

このころから毎年、新宿のホテルで忘年会を開催した。招待客はピーク時、400人に達したという。

金は、文字通り湯水のように使った。

「金に執着はまったくない。着るものにも一切無頓着」。登茂子、真知子、ふたりの女房が口をそろえた。

赤塚は『いま来たこの道帰りゃんせ』で、このころの自分を「成り上がり」と言い「金持ち=罪悪」と考えていた。

「漫画の流行作家というわけで、どんどん金が入ってきたが、生来ハングリーだったからか、金持ちになることが罪悪みたいに思えて仕方がない。少し貯えができると、何かに使いたくなるのである」と。

68年には、レーシングチームを持った。これはレースで金儲け、を企んだわけではなく、友人に頼まれたからだった。登茂子が入れ込んだ事業だった。

芸能プロダクション『不二・ビデオ・エンタープライズ』を設立した。アニメーションの制作会社『不二アート』もつくった。いずれも赤字続きだった。