母との生活は自己嫌悪の連続で

最初に奔走したのが、同居のための家探しです。設備の整った大学病院に通いやすいことが第一。さらに、母は杖代わりにシルバーカーを押していたので、バリアフリーであることや、家の周囲に坂道がないことも必須条件でした。そして16年4月、母との生活が始まったのです。

仕事への影響は早々に出始めました。母の通院につき添わなくてはいけないし、留守の間、母に何かあってはいけないので、地方ロケや泊まりの仕事はできません。夜遅くまでかかるものもNG。結果、大幅に仕事は減り、決まりかけていた地方テレビ局のレギュラーの仕事も断らざるをえませんでした。

同居開始からまもなく、母の様子もおかしくなってきました。以前はバスを乗り継いで隣町の老人福祉センターに通うほど社交的な日々を送っていたのに、引っ越した途端、外に出なくなったのです。

友だちから電話がかかってくると、「二度と電話してこないで」と言う。「え~っ、友だちにそんな言い方する?」と僕はびっくり。考えに考えて選んだ引っ越し先だったけれど、環境が変わったことが悪かったのだろうかと落ち込みましたね。

母の変化はそれに留まらず、食材が十分あるのに「ない、ない」と言ってやたらストックしたり、汚れたティッシュペーパーをポケットがパンパンになるまでため込んだり、突然僕のシャツで床を拭いたり……。感情の起伏が激しく、ワガママな言動も増えました。

僕はついイラッとして、「どうしてそんなことするの!」と強く当たってしまう。言ってしまった後で、「なんで優しく声をかけてあげられないんだろう」と自己嫌悪が襲ってきます。

母は栄養士として小学校に長年勤務し、僕が小さい頃は働きながら父方の祖父の介護もしていたし、父が大腸がんを患い脳腫瘍で亡くなるまでも、懸命に支えた。そんなしっかり者の母がどうしちゃったの、と。当時はまだ僕も、尊敬できる母でいてほしいという思いが強かったのでしょうね。

認知症の症状のようにも思えたので、精神科で診てもらうと、がんになったショックによる「反応性うつ病」とのこと。精神のバランスを崩した母が哀れでしたが、その母とずっと向き合う僕自身も、精神的に余裕を失っていきました。

冬が近づき、母は腰の痛みを強く訴えるようになりました。その不安からなのか、ワガママを通すときは決まって「だったらもう死ぬ」と言う。ある日、出かける支度をしていたら、母が「何時に帰ってくるの?」。「遅くなるかも」「早く帰ってきて」「無理だよ」。そして母が「帰ってきたら、死んでるかもしれないから」と言い放った瞬間、プツンと心の糸が切れてしまったのです。気づいたら、横になっている母の両脇にドンッと手をつき、「言われた側の気持ちを考えたことあるのか!」と怒鳴っていました。