「暗黒」の時代、母が末期がんに
母が81歳で亡くなって、もうすぐ2年。朝は仏壇に手を合わせ、遺影に向かって「おはよう」の挨拶、夜はその日の出来事だとか、あれこれ話すのが僕の日課です。晩年の母を介護した日々は、とにかく後悔だけはしないように、母が最期まで幸せでいられるようにという一心で、がむしゃらに走り続けた1年半だったように思います。
横浜でひとり暮らしをしていた母から「大変なの」と電話がかかってきたのは、2015年の年末。健康診断で引っかかったらしく、不安な声で「病院に行くの、つきあって」と言いました。検査の結果、診断は肺がん。それもステージIVで、腰骨に転移しているとのことでした。医師の話では、すでに治療法はなく、進行を遅らせることしかできないと。ショックでした。
とにかく母を支えなければ……。しかし、この頃の僕は人生で最も“暗黒”の時代にいました。6年の結婚生活ののち離婚して、ひとり息子とも別れて暮らすことに。と同時に、お笑いコンビ・ドロンズの解散後に始めた鍋料理の店も手放していました。
それでもなんとか情報番組のレギュラーの仕事が決まり、「ようし、これからだぞ」と意気込んでいた矢先だったのです。母のことは、足腰が弱くなってきていたので心配はしていたものの、こういう形で厳しい現実と直面することになろうとは想像もしていませんでした。
自分が母の面倒を見ることに、ためらいはなかったです。兄は滋賀県在住、姉も香川県に嫁いでいるので。04年に父が他界したとき、母は姉の誘いで家を引き払い、姉家族と一緒に四国で暮らしていた時期があります。けれど母にとって、気を使いながら誰かの世話になるより、慣れ親しんだ神奈川でひとり暮らしをするほうがよかったようで。そんな経緯もあり、何かあれば近くにいる自分が引き受けるのだと感じていました。
それに僕は、これまできょうだいの中で誰よりも母に心配をかけてきましたから。大学受験では勉強もしないまま20校以上受け、すべて不合格。しかも2浪までして。その後は芸能という不安定な職業を選んだ……。これからは僕が親孝行をする番だと思ったのです。