1984年、ヴァチカンでローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見。左は妻の登三子さん(写真提供:裏千家)

本当は、「平和」という言葉を用いない世にすることが願いです。それは、戦争や無残な殺し合いがあってこそ意味を持つものですから。「平和」なんて言葉を必要としない世の中にしていかなければならない。そう思いませんか。

ナチスが台頭してきた1932年、アインシュタインはフロイトへの手紙にこう書きました。「どうして人間は争うのか。なぜ、戦争というものは終わらないのか」と。それに対してフロイトは「人間とは、我の強いものだ。それに欲が付いて『我欲』になる。自分だけがよい思いをするために善人面をする。そして善人面をするということ自体が人間同士の争いを生むのだ」。そんな返事をしていたと記憶しています。

それを読んで思いました。人間は善人ぶっているけれど、実は悪人なのだと。どうでしょう。違いますか?

その証拠というわけではありませんが、私は、これまで数多くの講演でこんな質問をしてきました。「皆さん、真実に生きていますか。これまで一度も嘘をついたことのない人は、手を挙げてください」。自信をもって手を挙げた人は、世界中で、ただ一人。バチカンの司祭さんだけでした。

その司祭は、こうおっしゃった。「私たちは毎日、懺悔をしています。懺悔によって、自分が人間として生きる価値があるかどうかを問うているのです。そして、自分に少しでも生きる価値があるのなら、他の人に何をしてあげることができるのか。手を差し伸べることによって、何ができるのかを考えています」。

すばらしい言葉です。まったくその通りだと思いました。本当の平和は、このような心から生まれて来るのです。しかし今、世界中の宗教にかかわる人たちが、この司祭のように生きておられるかといえば、わからないと言わざるをえません。