学徒動員で同志社から海軍へ
進学といえば、当時の男子は中学校から旧制高等学校(現在の大学1、2年の教養課程に相当)に進み、そこから大学へ行くのが一般的でした。私もそのつもりで勉強していたら、ある日、父に呼び出され「同志社大学に行きなさい」と。「どうしてですか。うちは禅宗であり、神道でしょう。それがなんでキリスト教の学校に行くのですか。絶対に嫌です!」。ここまで強く反発したのは初めてのことでした。
すると父が「そうではないのだ」と静かに語り始めたのです。「新島八重さんを知っているだろう。同志社大学の創始者・新島襄(じょう)先生の奥さまだ。この方があなたのおじいさまである十三代の圓能斎(えんのうさい)に入門されて優れた茶人となり、茶道を女性の教養として学校教育に取り入れてくださった。今の裏千家の発展の礎を作ってくださったのだ」と。
さらに続けて、「私も同志社に行ったおかげで英語を身につけられた。これからは、世の中が大きく変わっていくだろう。何よりまず、英語を勉強しとかなあかん」。そう語る父は確かに英語が堪能だったのです。
ここまで言われると納得するしかありません。1941年、同志社に進学。渋々でしたが、実際に通ってみるとこれが、すばらしかった。キリスト教の学校ですから、朝はチャペルで讃美歌を歌い、聖書を読んで、牧師の説教を聞く。まったく縁のなかったキリスト教の世界に触れ、「こんな宗教なのか」と少しずつ理解が深まりました。
何よりすばらしかったのが、英語教育です。先生方の多くは、アメリカン・ボード(北米最初の海外伝道組織)から派遣されたアメリカ人。入学した年の冬に太平洋戦争が始まり、皆さん、帰還船で帰ってしまわれましたが、残った先生方が英語で授業をしてくださったのです。