厳しく育てられた子ども時代

私は、101年前の1923年4月、この千家に嫡男として生まれました。5人きょうだいの真ん中。姉が2人に弟が2人。待望の男児でしたから、「これで十五代ができた」と祖父母はたいそう喜んだそうです。

家元を継ぐ者として、それはもう厳しく鍛えられました。弟たちと比べて「私だけ、どうして」と、子ども心にも疑問に思うことばかり。言葉づかいや挨拶はもちろん、生活のあらゆることを主に母から細かくしつけられたのです。ときには反発したくもなりますよ。見るもの、聞くもの、すべてがお茶、お茶ですから。

まわりの大人たちも機会を見つけては、「これが楽焼のお茶碗です」などと丁寧に教えてくれるのですが、幼い自分にはうるさく感じられて。今になって思えば、すべてが私のためであり、役に立つことばかりなのですけどね。

もちろん、その厳しさには理由がありました。私ども千家は、千利休以来、明治ご維新まで武門として禄をいただきながら、一わんのお茶によって各藩に仕えてきた家。つまり、茶家であるとともに武家でもあったのです。

祖父母は明治の生まれでしたから、当時は今より武家社会の伝統が色濃く残っていました。嫡男の私が武家と茶家の作法をどちらも極めなければならないのは、この家に生まれた者として当たり前のこと。

小学生の頃には、剣道の師範を家に招き、剣術を教わりました。厳しくつらい稽古でしたが、そのおかげで飽きもせず、冷めもせず、文武両道に励み続ける強靭な体力と精神力が身についていったように思います。

乗馬もやらされました。あれは、8歳のときでしたか。怖がる私を父がひょいと抱き上げて乗せてくれたのですが、もう嫌で嫌で。ところが、渋々続けているうちにだんだんと馬のすばらしさがわかってきて、いつしかすっかりのめり込んでいました。

今も、日本馬術連盟の会長とアジア馬術連盟の名誉会長を務めていますから、もう90年以上も馬と歩んできたことになります。戦後は、障害馬術の選手として国体に2度出場し、オリンピック代表候補にもなりました。私にとって馬は、何物にも代えがたい大切な人生のパートナーです。

馬と重ねてきた歳月のうちには、苦い思い出もないわけではありません。もっともつらかったのは、太平洋戦争が始まり、馬が戦地に徴用されていったとき。私の馬も連れていかれ、遠い中国北部の地で戦死しました。忘れもしません。いい馬でした。