「都忘れ」の花束がつないでくれた縁
初めて健さんに会ったのは1984年、健さんは53歳、私が31歳の時でした。それまで勤めていた出版社をやめ、フリーライターになったばかりの頃です。よく「谷さんは高倉さんのファンだったのですか?」とかれるのですが、それがそうでもなくて(笑)。
ある晩、健さんが居酒屋のカウンターに腰掛けているのを私が窓越しに覗いている、という夢を見たのです。妙な夢だなと思っていたところへ、当時、映画の助監督をしていた知人から、「『夜叉』の撮影が始まるけど、主演の高倉健さんを取材しますか?」と連絡がありました。
奇遇だなと思いながら撮影現場へ伺い、初めてナマの健さんに遭遇した瞬間、なんてカッコいいのだろうと思いました。それまでも大スターと呼ばれる方の取材をしていましたが、放つオーラが違うのです。
撮影現場はほとんど男性で、誰もが黒ずくめのいでたちでした。寒いだろうと真っ黄色のスキーウエアを着ていた私は目立っていたのでしょう。スタッフの方を介してではありましたが、健さんから「休憩時間にコーヒーをご一緒しませんか?」とお誘いを受けました。普通なら「私など」と辞退する場面ですが、私は「よろしいですか?」と厚かましく控室に出向き、勧められるままにお酒までいただいて……。
でも今にして思えば、周囲の人たちから天真爛漫だよねと言われる私の性質が幸いしたのかもしれません。つまり面白いのが来たな、と感じていただけたのかなと振り返って思います。
やがて『夜叉』のクランクアップの日を迎え、お金がなかった私は、せめて健さんが好きだという都忘れの花を持参しようと、東京中の生花店を巡りささやかなブーケを用意しました。
ところが、カサブランカや真紅の薔薇の豪華な花束を贈られ、満面の笑みで応える健さんを目の当たりにし、すっかり気後れしてしまったのです。でもやっぱり、と意を決して手渡すと、健さんはじっと小さな花束を見つめ、静かなトーンで「ありがとう」と。驚くことに、目にはうっすらと涙が光っていました。
この出来事を経て、私は健さんから「谷さん」ではなく、「谷」と呼ばれるようになり、グッと距離が縮まったように思います。
その後も私は新作がクランクアップするたびに撮影現場に押しかけ、海外の仕事にも自腹でついて行くようになりました。健さんは周囲の人にわざわざ私を紹介したりはしませんでしたので、「あの女性は誰?」と思っていた方も多いようです。
でも健さんが私のことを女性として見ていないことだけは周囲に伝わっていたのでしょう(笑)。周囲のみなさんにも良くしていただきました。