積極的攻撃姿勢が功を奏して

次に戦略的流れでは、能古島から博多警固所への刀伊軍の攻撃にさいし、藤原隆家以下が有力武者を引率しており、それも上陸阻止に繋がった点だ。

『刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機』(著:関幸彦/中公新書)

つまりは迎撃という受動的防衛でなく、積極的攻撃姿勢が功を奏した点である。戦場での即応態勢は評価されるべきだろう。

さらに兵船不足のなか、2日間にわたる大風による停戦状況下で兵船準備の促進がなされたこと、そしてその間に、刀伊軍の退路にあたる筑前志摩郡方面に軍略的布陣を展開させ得たことだ。

ちなみに警固所については、新羅海賊での経験が小さくなかった。

刀伊戦での史料に見える警固所も9世紀末の寛平期段階の設置とされているもので、他に肥前国高来(たかき)郡の「肥最崎(ひのみさき)警固所」(長崎県西彼杵郡)の存在が知られる。

その軍事的拠点は9世紀半ば以降に異国船来着の多発化にともなう海防施設であり、博多湾を軸に機能したことがわかる。

大宰府側の武力発動も警固所を介して機能した。兵船不足のなか、陸路より早良・志摩両郡へと精兵が配備され、「郡住人」との共同作戦が刀伊軍の撃退に繋がったことも興味深い。