律令軍団制の解体の中で
そのさい留意されるのは一般の府兵の存在だ。諸史料からは大宰府側の「精兵」なり「郡住人」の特別な武力とは別に、動員の対象となり得る兵力である。
それゆえに刀伊来襲時には「府兵、忽然トシテ集マラズ(大宰府の兵士はにわかに集まらなかった)」という状況もあった。その意味では、府兵の多くは農民だとしても、かつての律令軍団制下のそれとはおのずと異なる存在といえそうだ。
9世紀半ば以降の大きな課題は、東国での蝦夷(えみし)・俘囚(ふしゅう)問題と西国との新羅海賊問題に対応する軍事力確保だった。
律令軍団制の解体の中で、俘囚の武力を有効活用する方針が採られた。俘囚の鎮西・山陰方面への移住が促進された。俘囚の卓越した武力を利用するために、一般農民から俘囚稲を供出させ、軍団・徴兵制の肩代わりとさせる流れである。
先に語った警固所についていえば、貞観11年(869)年5月、新羅海賊により豊前国貢調船襲撃がなされた。これにより大宰府鴻臚館(外交および海外交易のための施設)に「夷俘」(俘囚)を移し、警固に当たらせている。
これ以外に俘囚の西国移送が9世紀後半以降目立っており、その武力への期待が大きかった。
現実には西国移送の俘囚たちが政府や大宰府の意図通りに動いたわけではない。が、その末裔たちが、北九州方面に移転・定着して府兵の一部を構成したことは否定できない。
刀伊戦での主軸の武力ではなかったが、大宰府の戦力としてこの俘囚およびその末裔たちがも律令軍団の欠を補う形で機能したのではなかったか。