紛争勃発への懸念

王朝貴族たちの異国・異域観が刀伊との戦いで鮮明化された点も興味深い。

刀伊戦にあって藤原隆家が率先して指揮に当たったことは諸史料からもわかる。その隆家の発言には国境認識が反映されていた。

『小右記』(寛仁三年四月二十五日条)の末尾に、追撃については「対島・壱岐に至るところまでとして、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」と隆家が戒めている点だ。

当時はもはや新羅ではなく高麗が正しいが、王朝貴族にとってその異域観では「唐」であり「新羅」の記憶が深い。とりわけ、対新羅との関係は常に緊張を強いられてきた。9世紀半ば以降の海防意識は対新羅に関する限り、常に来寇の脅威とともにあった。

それゆえに大宰府の精兵が兵船で刀伊軍を追撃した場合、生じる懸念は高麗海域への越境による紛争の勃発だった。