兼家40歳で公卿に

ともかく、憲平の外戚という立場が、官職上ある程度裏付けられたという点に、一応メリットがある。

憲平が即位すると、まもなく兼家は蔵人頭(くろうどのとう)に就任する。蔵人頭は天皇の側近(秘書官)である蔵人を統括する非常に重要な役職で、2人しか任命されない。しかも参議に欠員があれば、蔵人頭から補充するのが慣例となっていた。ここで、兼家はまもなく参議になることが約束されたことになる。

この冷泉天皇即位は、兼家にとって非常に大きな転機になった。この年、左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)いわゆる左中将となる。

近衛府は令外官(りょうげのかん)といって、律令制定後にできた官職なので、律令には規定されておらず、一般的な官位相当表に載っていない場合もある。

近衛府というのは、宮城のもっとも内郭の警衛をつとめ、天皇に近仕する親衛隊であった。兼家はその次官となったのである。ただし、戦闘能力が問われるわけではなく、儀式の威儀を整え、天皇の権威を高める役割をはたしていた。また兼家は、この年、正四位下となった。これは四位の上から2番目という地位である。

翌安和元年(968)、蔵人頭兼左中将(これを普通、頭中将〔とうのちゅうじょう〕と呼ぶ)のまま、従三位(じゅさんみ)となった。ここから『公卿補任』という書物にその名前が掲載される。すなわち、三位となったため、公卿とみなされるのである。このとき兼家は40歳。