(写真提供:シルエット AC)

『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。

公卿会議とは

公卿会議は現代における内閣の閣議に近いと考えられる。

公卿というのは、貴族の上層の人たちのことである。そこで貴族とは何なのかということになるが、これは説明するのがけっこう難しい。まずこの貴族社会を考える手がかりとなる官位(官職と位階)というものについてから始めたい。

摂関政治の全盛期を築いた藤原道長が生まれたのは康保3年(966)だが、これほどの有名人なのにもかかわらず生まれた日はわからない。

このとき父の兼家は38歳(数え年。以下同)であったが、その兼家の官位は従四位下(じゅしいのげ)左京大夫であった。ここで「従四位下」というのが位階(単に位ともいう)で、「左京大夫」が官職(単に官ともいう)である。

位階についていうと、それをもっている有位者が官吏であり、もっていない無位の者が庶民ということになる。有位者の位階は正一位から少初位まで、30階に分かれており、五位以上が優遇されていた。律令制が開始された8世紀頃には、五位以上がだいたい貴族と考えてよい。