道長誕生時の父・兼家は「都知事クラス」だった
律令には官位相当という原則があって、それぞれの位にふさわしい官職が規定されている。「左京大夫」という官職は、左京職という役所の長官である。
京職というのは、首都を管轄する、現在なら東京都庁にあたる。だから、このときの兼家の役職「左京大夫」は現在でいうと東京都知事ということになるのかもしれない。
これは官位相当制によると、正五位上相当とある。つまり、一つ上の位なのに、官職はそれより低いということになろう。京職がたいした地位ではないこと、そして四位と五位のあいだにも実際にはかなりの格差があった。
想像すると、兼家としては、今に見ておれ、というような気持ちがあったに違いない。
とはいえ、兼家はやはり藤原北家(ほっけ)の流れの貴族であり、藤原氏の中でももっとも名門である。
道長が生まれた翌年の康保4年(967)、春宮亮(とうぐうのすけ)という官職に任命される。春宮(東宮)とは皇太子のことで、このときの春宮は、同年5月冷泉天皇として即位する憲平親王のことである。
憲平の母安子は兼家の姉だから、兼家は憲平の外戚(母方の親戚)となる。ただし、父師輔はすでに天徳4年(960)に亡くなっていた。
春宮亮は皇太子の役所である春宮坊の次官だが、官位相当制では左京大夫より下の従五位相当であった。長官の春宮大夫は兼家の位である従四位下相当なのだから、その次官である春宮亮も兼家にとって不本意な地位といえよう。