ヴァイオリニストとシンガー・ソングライター。音楽家としてのかたちは違えど、前橋汀子さんとさだまさしさんは幼い頃から音楽と向き合ってきました。交流が深く、今なお現役で活躍するおふたりが、これまでの道のりを振り返りつつ語り合います(構成=小西恵美子 撮影=岡本隆史)
親宛てに遺書を書いた
前橋 当時、レニングラードには日本人が1人もいない時代で、日本領事館もありませんでした。
さだ 頼るところがない。留学中に、ヴァイオリンをやめたいと思ったことはなかったんですか?
前橋 ソ連の音楽教育のシステムは最高でしたから、レベルが非常に高くて、どの生徒もすごく上手でした。私はソリストになりたかったけれど、とても無理だと思って毎日泣いていた。挫折です(笑)。でもせっかくこられたんだし、ソ連の奏法を身につけて帰れば、日本で役立つと思ったの。
さだ 当時の音楽教育では世界のトップですよ。バレエにしろスポーツにしろ、歴史に支えられた知識と方法論がある。でも周りがうまいとだいたいやめちゃうんです。それを「挫折」と言います。(笑)
前橋 やめたくても、容易に日本に帰れないですもの。手紙は日本との往復に1ヵ月以上かかるし、電話はかけられないし。3年間、夏休みも帰らないで(笑)。ソ連の人たちは温かかったし、友だちもできたし。ただ、私は頑張りすぎたのか、ついに倒れて2ヵ月入院しました。
さだ えっ、レニングラードで?
前橋 心細くて、ここで息絶えるかもしれないと思ったの。両親に遺書を書いて枕の下に入れました。でも入院したことは親に知らせなかった。心配するからね。
さだ 僕も遺書を書いたことがあります。下宿生活を送っていた高校生の時、インフルエンザで高熱が出て、朦朧として。体の節々が痛くて死んじゃうかもしれないと思ったんですね。やっぱり枕元に置きました。前橋さんはレニングラードから帰国後、今度はアメリカに行かれていますよね。