「ドリームチーム」の誕生とともに迎えた“絶頂”
世界随一のバスケットボール大国とされるアメリカ。バスケットボールが1936年のオリンピックで正式種目となって以来、アメリカの男子チームが表彰台の真ん中に立ったのは、実に19大会中15回を数える。
そう記すと「向かうところ敵なし」といった状況に思えるが、1988年の韓国・ソウル五輪において、アメリカはソ連に準決勝で敗北。1990年の世界選手権、1991年のパンアメリカン大会などは3位に終わっており、当時は国民の大きな溜息とバッシングを買い、大国の名声は崩れつつあった。
しかしこれらの成果は大学生中心のチームによるものだったため、FIBA(国際バスケットボール連盟)はプロ選手に五輪への参加資格を与えるべきと委員長が発表。圧倒的多数で可決する。
こうした動きに対してアメリカ自体は反対票を投じるも、結果は変わらず。1991年10月、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、チャールズ・バークレーら、NBAの現役スター選手を揃えたメンバーを発表する。 王国の威信をかけたチームは「ドリームチーム」との愛称で呼ばれた(名付け親は『Sports Illustrated』〔Time Warner Inc.〕)。
NBAはその頃、全世界90ヶ国に放映権を持つなど、国際戦略を推し進めていたが、オリンピックへの出場はリーグの発揚にまたとないチャンスだった。
日本でも多くのメディアがこのビッグニュースを取り上げ、USAのフラッグカラーに彩られたナイキのエア ジョーダン 7、エア フォース 180、エア バリスティックフォース、コンバースのアクセレレイターなどのオリンピック専用モデルが、スポーツ店の棚にずらりと並んだ様子はまさに圧巻だった。こうして日本のバスケットボール人気はいよいよ絶頂を迎えた。