最後のバトン

有人調査は各年の遺骨収集団がバトンをつなぐ形で継続された。

最後のバトンを渡されたアンカー。

それこそが僕が参加した「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」だったのだ。

本来であればマルイチの調査は、この収集団が派遣される前に完了しているはずだった。

しかし、飲料水の源となる雨不足のため収集団の派遣中止が続いた結果、バトンが回り回って僕らの収集団に渡ってきたのだ。

やけどの事故や雨不足による順延がなければバトンは回ってこなかった。

地の底の何かに僕は、呼ばれている。

そんな思いが、僕の胸に広がっていった。

※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を再編集したものです。

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硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(著:酒井聡平/講談社)

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