そのとき、ハルは軽いめまいを覚えた。
 急に肉屋の軒先に並べられた豚肉のにおいが生臭く感じられた。下腹には、ずいぶんひさしぶりに感じる沈みこむような重い痛みがあった。それは十代の中頃からつきあい続けていた、女性であれば逃れることのできない痛み――。兄の事件からめまぐるしい日々のなかで、三ヶ月も止まっていたのに、いま月のものがくるなんて、ほんとうに間が悪い、とハルは思った。
 痛みが我慢できなくて、さっきまで女学生たちが座っていた八百屋のベンチに腰を下ろす。八百屋の主人がチラリと横目でハルを見たけれど、なにもいわなかった。
 痛みはぎりぎりといっそう強くなってきた。体を丸めるようにハルはお腹を押さえる。
お昼の買い出しで混雑する市場をぼんやりと眺めながら、どこで脱脂綿を買えるのかしらと、考えていたら、遠くのほうで、叫ぶような少女の声がきこえて、ハルは視線を上げる。
 視線の先、十歳くらいの女の子が、老人の手から本のようなものを取り返そうと必死で引っ張っていた。尋常ではない様子に、まわりにひとが集まってきて、老人はその本を投げ捨てるように女の子にわたすと、大声で悪態をついて市場の外にでていった。
 女の子はいかにも大切そうにその本をなでると、店の軒先に座りこんでぼろぼろの本を広げ、ささやくような声で読みはじめた。店では卵を売っているらしく、買い物客が声をかけるたびに、少女は本を椅子の上に置いて、籠のなかの卵を数えて袋に入れると客に手わたしている。
 少女が開いた本の表紙をハルが目をこらして見ると、それは学校の教科書のようだった。さっき大声を上げていた老人は、雇い主かあるいは祖父だろうか。