1928年から53年まで32代当主を務めた父・渡辺亀次郎は、職人肌でお菓子一筋の人でした。その腕前は和菓子職人の間で、「お菓子の神様」と呼ばれるほど。そんな父から繰り返し聞かされてきたのが、「材料を落とすな、割り守れ」という言葉です。

割りとは材料の配合のこと。つまり、素材にこだわれ、伝統の配合を守れ、ということね。これは今や家訓となり、塩瀬の職人に日々伝えられています。

今もはっきり覚えているのが父の手の感触です。あれは男の手じゃなかった。筋張ったところがなくふわっとしていて、触ってみると驚くほど柔らかい。食紅を使うから指がほんのりピンクに色づいて、まさに繊細なお菓子を作る人の手でした。

一方しっかり者の母は、お店の事務的なことから経営、営業といったことを一手に引き受けて、職人肌の父を支えていました。子どもの目にも母はすごく「やり手」だった。

戦前までの商売は、宮内省から御用を賜ることに加え、宮様方や諸官庁、軍部関係などからのご注文、さらには大きな料亭からもご注文をいただき、繁盛を続けていました。幼い私は工場をひょこひょこ歩いては、棚の下にもぐって餡の小さなかけらをこっそりパクッ。悪い子だったわねえ。(笑)

やがて太平洋戦争が始まりまして、空襲警報が鳴るたびに工場の隣に掘った防空壕に逃げ込む日々もありました。あの頃は塩瀬の焼き窯で、学校給食用のコッペパンも作っていたんですよ。

戦時中は、戦地で亡くなった方の死を悼んでそのご遺族に天皇陛下が下賜なさる、菊と桐をかたどったお菓子「御紋菓」を作りました。一般人には手に入らなくなっていた砂糖、蜜、寒梅粉が、「御紋菓」の材料として宮内省からうちの倉庫にどんどん運び込まれてくるの。

私ももちろん手伝いに駆り出され、できあがった菓子を薄い和紙でくるんで、6個ずつ箱に納める作業を行いました。お菓子のふちが欠けてしまわないように、とても気を遣います。終戦間際の我が家の作業場は、どこもかしこもこの箱だらけで……。忘れられない光景です。

箱詰めは同じ作業の繰り返しのため、私がついウトウトしてしまって母から叱られたことを思い出します。「これは兵隊さんの命と引き換えのお菓子なんだから、丁寧に包まないといけないよ」と……。兵隊さんの式典などでも「御紋菓」が配られるんですが、それも全部うちが宮内省御用達としてやらせていただいていました。