72年に撮影。右が母・よしさん(写真提供◎英子さん)

母の読みが大当たり

しかし1945年に終戦を迎えると、状況は一変。宮内省の御用も軍隊や宮家からの注文もすべてなくなりました。そして何より困ったのは、砂糖などの材料がまったく手に入らなくなったこと。

それで父は、終戦から2年ほどの間、菓子を作れなくなりました。

人工甘味料のサッカリンを使って商品を作らないかという誘いは山ほどあったのです。いろいろな業者さんがやってきて、「塩瀬」の看板で売れば何だって売れる、と口を揃えて。でも父は「まがい物は作らない」とすべて断ってしまった。

2年も収入のない状態が続いたのですから、母も苦労したのでしょうね。「お父さんは頑固だから」としきりにこぼしていました。

でも、父はそうやって塩瀬の暖簾を守り抜いた。作らずに待機することを選んだのだと、今ならわかります。