◆自害の作法を 練習させられて
45年8月15日正午。母は、ラジオの前に端然と背筋を伸ばして座り玉音放送を聴いていましたが、数日後、父が私の嫁入りの時にと用意していた刀身が鈍く光る懐剣を前に置いて、こう言いました。「日本は負けました。あなたが万が一辱めを受けるようなことがあれば、これで自害なさい。切っ先を自分ののど元に向け、その上から突っ伏すのです」。何度か自害の作法を練習させられました。
軍人の妻としてお手本になるようにと生きた母は、父が亡くなり、息子が戦死し、もう一人の息子が音信不通となっても、決して涙を見せたことはありませんでした。
私が大きくなってから、母と一緒にお風呂に入っている時に、「お母様、どうしてあれだけ大変な思いをされながら、涙一滴こぼされなかったんですか」と聞いたら、母は言いました。「そりゃ私だって泣きたかったわよ」って。だから私、「私は泣きわめく女になりますからね」と言ったんです。そしたらその時、母が初めて泣きました。大粒の涙をこぼして。
戦後、私は、音楽に魅せられ、音楽の世界で生きていくことになりました。戦死した兄の想いが、私の中に生きているのかもしれません。平和があるところにしか、音楽は存在できないことを、伝え続けたいと思います。