「日中戦線が拡大し、泥沼化していた時期。国内でも生活必需品は切符制となり、すでに日本は否応無しに総力戦に臨みつつあった」(イラスト=『婦人公論』1940年8月号より)

 

おそろいの白シャツで「体育」も

「総力戦研究所」のカリキュラムは主に「講義」と「演練」(ゼミナール)の二本立て。

現役軍人による「戦略戦術」などの通常講義から、外部より招かれたゲストによる講義も行われた。また、戦艦や八幡製鐵所など地方への視察旅行もあり、バラエティに富んだものとなっていた。

この内容は、元関東軍参謀長中将であった飯村穣所長(1888–1976)の考えによるところが大きかったようである。

飯村は石原莞爾(1889–1949)と同期の武官だったが、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に在籍しロシア語、フランス語などの語学に堪能であった。トルコ駐在武官時代にはトルコ陸軍大学でフランス語の講義をしたという伝説の持ち主であり、外国語の戦術書を多く翻訳したことから、戦術の専門家という定評があった。

その知性は研究所においてもユニークな形で発揮され、エリートぞろいの研究生たちも感服したようだ。

飯村は授業冒頭の1分間を口頭試問にあて、「信義とは何ぞや」「官吏とは何ぞや」などという大ぶりな質問を投げかけては皆を翻弄した。

また、当時のベストセラー、吉川英治の『宮本武蔵』を全員に与えて「総力戦的見地からみた主人公の分析」というテーマで宿題を課したりもしている。そのレポートはわざわざ吉川英治本人のもとに届けられたという。

一方で、当初、研究生の間に戸惑いを呼んだのは「体育の時間」が設けられていたことだ。月曜日から金曜日までの連日、一時間超の枠がとられており、おそろいの白シャツで、ランニングやボールを使った遊戯が課せられた。

なにしろ平均年齢33歳、最年長者は37歳である。これには「いまさら体操なんて」などと抗議の発言が相次いだが、やがて研究生たちは一丸となって運動を楽しむようになったという。毎度駆け足で府立一中(現在の日比谷高校)のグラウンドへと向かい、時折、50代後半の飯村所長も、80キロを超える巨体を白シャツにおしこんで参加した。

この飯村所長の創意工夫と人柄によって、研究所内には明るい一体感と、自由に物を言い合える梁山泊的な雰囲気が生まれていた。