娘の突然死による深い悲しみ。時間と書くことで救われる
書くことは、少し距離を取って自分を振り返る力にもなります。「音楽教師の夢半ばで娘はこの世を去った。救いを求めて、恐山のイタコを訪ねたが」の作者である細貝靖子さん。タイトルにあるように、まだ大学生だった長女を突然亡くされた悲しみはどれだけのものだったでしょうか。
身近な人の死を受け入れるまでの時間は、相手との関係や、そのときの自分の状況によって変わってくるものです。割にぽんと吹っ切れる場合もあれば、長くかかってしまうこともある。「これまでにも身近な人を見送った経験があり、死というものを人並みに理解しているつもりだった」作者ですが、長女の死を受け止めることを全力で拒否してしまう。
それを表しているのが、幼なじみとともに恐山へイタコに会いに行こうとする記述でしょう。結局恐山には入山せず、青森に住むイタコさんの家で口寄せをしてもらったけれども、「長女の存在を確信できなかった」という作者。
この紆余曲折こそが、細貝さんの心が長女の死という事実を拒否して暴れている証拠です。そして心が暴れがちな人ほど、「書く」ことが大事なのです。
それから10年後に次女が結婚。その翌年、長女の誕生日の近くに次女が女の子を出産したとき、細貝さんは一瞬、孫が長女の生まれ変わりではと思い込みそうになります。私の母も、私の息子の誕生日が父の亡くなった日だったという理由で彼をベタベタに可愛がり、認知症が進んできた今では、「自分があの子を産んだことは覚えている」と言い張るくらいなので(笑)、作者の気持ちもわからないではありません。
ただ私の母とは違い、細貝さんは賢明にも「私は祖母であり、母親ではない」と思い直します。たぶん10年という年月が作者の心を癒やし、また書くことで自分を見つめることができていたからではないでしょうか。
ここで少しだけ、俳句的な視点からテレビのような辛口評を入れてみるならば、文中にある2つのピアノ曲は、題名を強調しすぎないほうが良かったかもしれないですね。クラシック愛好家の私の夫によれば、「悲愴」と「月光」は「悲しみや寂しさといったイメージで知られる曲」とのこと。読む前から感情の動きの想像がついてしまうのはもったいない気がします。
俳句では、表現したい内容と言葉のイメージが近すぎることを「べたつき」と言って嫌います。たとえば先日の句会ライブで、ある学校の先生が遅くまで残って仕事をした帰りぎわの様子を「闇の廊下にセコム音」と書きました。そこにもし「秋さみし」みたいな季語を付けてしまうと、ただやるせない悲しい情景になってしまう。
でもその先生が選んだのは、「星月夜」という季語。星が月のように明るいという意味ですから、真っ暗な廊下を歩いて外へ出たときの新鮮な驚きや、きれいな夜空を一人見上げる切なさ、いろんな感情が想像できると思いませんか。
もちろん娘さんが弾いた思い出の曲であり、ピアノの先生が幻で聴いたという事実は変えようがありません。ただ俳句だと、そのあたりをちょこっとフィクションというか(笑)、より表現としてふさわしい言葉に置き換えることはあります。